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日语作文30篇

日语作文30篇
日语作文30篇

私の梦

かつて、ナポレオンが「将军になる考えがない兵士はいい兵士じゃない」と言いました。そのとおり、梦がない人生は人生ではありません。

子供の时から、亲や先生や友达などいろいろな人が「あなたの梦はなんですが」と闻きました。理の当然で、人々がさめざまの梦想を持っています。私も梦がたくさんあります。

小学生制になった时、クラス担任はとても优しくて、若い女性でした。みんなだいすきでした。彼女は数学を教えてくださったので、私は

一生悬命顽张りました。长い时间を使って、ひとつの难问に回答した後の気持ちはとても高扬していました。心から数学の教师にならたいと思いました。両亲も喜んで応援してくれました。

12歳、中学校に入りました。その顷田舎の家の近くで伝统的な芝居がはやっていました.祖母も好きで、周末一绪に见に行きました。そして、私はだんだん、その芝居に梦中になりました。时々、真似たり、一人で歌ったりしました。何时でも。何処でも、音楽が闻こえると、特别な感铭がありました。

いつの间にか、俳优になりたいという考えが出てきました。私は音痴ですから、両亲に知らせると、「白昼梦を见るじゃないよ」と言われました。今思えば、当时は思春期だったからなのか、悲しいことに自分の考えに固执しました。

时间がはやくたちました。瞬く间にもう大学生になりました。今、専门が日本语の私はまた一つの梦があります。その梦とは外资企业に勤めることです。通訳でも翻訳でもいい出です。

そうすると「将来はなにをする?数学を教える?それに俳优になる?あゆいわ日本语に関して仕事をやる?」といろいろな问题が思い出されました。あれこれと思いを巡らすと、难しいですね。答えはなかなか出てきませんでした。

ところが、そんな梦がたくさんあるので、生活が面白い、目标に向かってまい进する力が强いです。梦は多ければ多いほど実现する机会も増えると思います。一つの梦が破れても、また别の梦を追うチャンスがあるからです。

さっきも言いましたように、梦を持つと问题が出てくることは否定できません。ですが、やはり、私はこれからも梦のある美しい生活を大切にしていきます。

「私の梦」(日本人は理想よりも、梦と言う言叶を使っていると思いますので。)

私はまだ子供のころ、空を见上げることが大好きでした。青々と広がっている空を、ふわふわしている云が、のんきそうに漂っていくのを见て、心が愈されるような気がします。

ですから、私はそのとき、「将来パ?ロットになりたい」と心で决めました。飞行机にのって、鸟のように、空を、云の间を缝いでいくことを、すばらしく思っていました。头が空っぽになって、すべての悩みが忘れられるようなので。

まだちっちゃいので、パ?ロットになるために、どうしたらいいのかまだ考えていませんでした。その后、パ?ロットはみんな2.0以上の视力がなければならないと闻いて、近视眼である私はただ、空しく叹くしか、しようがありませんでした。

高校に入って、私はサッカーに兴味を持ち始めました。サッカー选手たちが、竞い合っている姿に、私は惚れていました。あのスピード、パワー、テクニック、あれこそが、男のあるべき姿ではないかと、私は思いました。そして同时に、新たな梦が私の心に芽生えました。それは、「中国一のゴールキーパーになって、中国チームを世界の顶点に送るのに、私は自分の力を捧げたい」と思いました。しかし、それには、身长が必要です。

1.80ちょうどの私には、中国一は无理だったのかもしれません。大学に入って、身长がほぼ固定された私の新たな梦は、无残にも破られてしまいました。

日语

大学では、日本语を専攻しました。正直、初めの顷は、梦なんて、まだ见つけていません。目の前の道をただ走るのみ、そこには私の梦とか、意志とか、ありませんでした。勉强していく中で、ちょっとした问题に気づきました。それは、必死に勉强している人ほど、成绩が低く、ということでした。そのとき私はこっそり考えました。実は彼らは努力が足りないってわけではありません。努力の方なら、私なんかより、ずっとたくさんしていると思います。残念なことに、彼らは勉强の仕组み、つまり勉强の方法を知らないだけに、こういう「空振り」の学习を缲り返しているです。そこで、私は「将来日本语の教师になって、知识だけではなく、勉强の仕组みを、御绍介させていただきたい」という、梦を持つようになり、そして今までに至っています

私の趣味はスポーツをやる事です。色んなスポーツ中にサッカーが大好きです。普段少なくとも周に1回やっ

ていました。最近、勉强忙しいですから、なかなか暇な时间が取れなくなりますので、殆どやっていませんでした。でも、サッカーのことを関心しております。毎周必ずスポーツ新闻を読みます。ちょっと残念ながら、最近、中国のサッカーチームは国际试合で全灭になりそうだ。

我的兴趣1

我的兴趣是运动。在各种运动项目中,我最喜欢的是足球。平时至少一周打一次。最近学习比较忙的缘故,抽不出空余时间,几乎不打了。但是,很关心足球的新闻,每周的体育报肯定会去看的,有点可惜的是,最近中国队在国际比赛项目上好像全军覆没。

私の趣味2

仆の趣味は音楽鉴赏でございます。もちろんポピュラー音楽が大好きですけども、普段にクラシック音楽もよく聴きます。いつも部屋で音楽を聴きながら、文章を书きます。もし、何か悩んでいることがあれば、好きな音楽を聴いて気持ちが落ち着けます。

我的兴趣2

我的兴趣是音乐鉴赏。当然了,我最喜欢的是流行乐,但是平时我也经常听听古典音乐。平时都是在屋里一边听音乐,一边写文章。如果有什么烦心事的话,听听自己喜欢的歌,心情可以平静下来。

私の家庭

私の家は三人の家庭です. お母さんとお父さんと私です.

私の母は病院の看护妇です. 毎日八时に病院へ行きます, 午后六时に家に帰ります. 母は中华料理がとても上手です.

私の父は大学の先生です. 化学の専门を授业しています. 本を読むことが好きで,テレビが好きないです. 私は大学の学生です. テレビを见ることが好きで, スポツが上手です.

私の家庭が楽しい家庭です. 私は父と母とよく一绪に游びに行ったり, 山を登ったりします.

我的家乡

私は上海に生まれました。故郷は上海だと思います。上海は中国の中では、最も都会らしい都会です。上海には名所名迹が少ないが、中国最大の商业、工业、港湾地帯として特徴づけられている。

今、上海の人口がもうすでに1250万人を超え、世界一のマンモス都市となった。改革开放によって、上海が大きく変わりつつある。毎年上海に帰省するたびに、その発展ぷりに惊き、上海の一员として、夸りと喜ぴを持っている。

上海は长江の南侧、支流の黄浦江の西侧に拓かれた街だ。今世纪の初めに黄浦江西侧のバンドと呼ばれる地区は、港湾设备が整备され、その周辺に各国の租界か集中されていた。上海はまた「冒険家の楽园」と呼ぱれ、このバンドは国内だけでなく海外でもよく知られており、観光客が必ず访れる所となっている。バンドは上海?シンポルとも言え、バンドの周辺に立ち并ぷ建物はそれぞれ风格を持ち、「万国の建筑物」と言われる。

バンドの近くから始まり、市中心まで伸びる世界でも有名な南京路がある。东京の银座より人がいっぱいで赈やかである。南京路にある第一百货店は毎日20万人ほどのお客さんを迎え、祝日になると30万人を超えるほどだ。

さらに、夜のバンドと南京路はまた格别だ。ネオンサ?ンがまぷしいほど辉き、日本人は上海の夜景を「五つ星」と绝賛している。

谁にも故郷がある。故郷を离れれぱ离れるほど故郷が恋しくなるのが人情だと思う。上海に帰る回数が増えれぱ増えるほど恋しくなる私の大好きな上海である

私の家族

私の家族はたくさんの上海の家族と同じ、幸せな3人家族です。父、母とかわいい私です。

父は见るのがちょっと厳しいですが実は日常の生活中に时々人に笑われることをします。母はふだんにぶつぶつ言うことがありますが私と父に対して母はいないと生活ができない人です。

私は幸せな家庭があって未来両亲は私に対して最重要な人です。

私は父と母を爱しています。

十一黄金周

もう终わったこの十一の节句は私に対していい休みを过ごしました。1日は亲戚のうちへ游びに行きました、2日は中学校の友达と一绪に歌を歌いました、3日は両亲と一绪に买い物に行きました、4日は日本语の授业をしました、5日の午前中大学のクラスメートと一绪に卓球をして午后ゴルフをしました、6日はもっと多いクラスメートと一绪にスキーに行きました、8日の学校へ通うことを迎えるために7日は一日中うちでゆっくり休みまして本当に充実しました。

「泥雨」

今年の夏に南京では、不思議な「泥雨」は二回があった。不思議な「泥雨」というのは、普通の程度の灰雨ではなくて、生まれて初めて見た、すごく多くの土砂を混じえた雨なのだ。

一回目は夜のことだった。朝、起きてから、ベランダでは、干された洗濯物はみんな斑になっていたのに、多くの南京人がびっくりした。

二回目は、午後のことだった。その日の午後、スーパーへ買い物に行った私は、帰りに、空は急に黄色くなったのに気がつくと、大雨が降り出した。私は道端の店へ急いで、雨宿りできたが、自転車にのる人たちはたいへんひどい目に会った。あっという間にほとんどの人は「縞馬」になってしまった。

翌日の新聞によると、「西部の内マンゴルのほうからの影響だ。」ということだった。なぜかそんなに多くの土砂はここまで運ばれてくることができたのか。ちょっと疑問を抱いた。

八月の末に、大学の「西部考察団」に参加して、西部環境を調べてきた友達にこう言われた。「西部は、もう人間の想像できる限り以上破壊された。」それで、いろいろな写真を見せてくれた。その中に、いくつの写真は土の色を背景として、二三本の木が混ざった広々としたばかりの空き地だった。「二十年前にここは森だったのに、」彼は言った。

私は無言だった。答えはここのだ。森林を無闇に乱伐して、砂漠化の拡大を招いたのだ。いや、もっと考えられるのは、その森林破壊は西部にあるだけではないだろう。そうではなければ、なぜかその土砂は遠く東にある南京にまで運ばれたことができたのだろう。それは、森林破壊からの砂漠化の拡大によって、多くのところは不毛の地になってしまい、土砂を混じえた大風は起こされ安くなって、また、一部分の土砂は気流運動に乗って、途中で余り阻止がなっかたから、大きな顔をして、都市まで来られて、「泥雨」に変わったわけだ。

森林破壊はこうした土砂を混じえた「泥雨」をもたらすのであるばかりではない。空気にある二酸化炭素の効率よく循環ができなくなって、地球温暖化をも招くのだ。

現在のような「泥雨」は、今度と来ないように、根本的な対策は森林の保護しかないといっても過言ではないだろう。

これは国を挙げた大問題だから、全国民の努力が必要であろう。いろいろな法律や規則や方案の制定などに取り組まなければならない。でも、少なくとも、みんなはできるだけ木の代わり品を使い、積極的に植樹運動に参加すれば、きっと、早く天然の「自然の雨」が迎えられるだろう。

中国の学校教育から、考えていくこと

「中国新聞社」によると、今年の1月、夕飯の後、ちょっとテレビを見たいが、母親に止められて①、又今学期ではクラスの前から10番以内に入ってくれ、と強く要求された徐力という中学生は、母親との口論②中に、ハンマーを持ってきて、母親を殴り殺したそうだ。

又、8月、八歳の王(北京)という小学生は、宿題を済まさずに、うそついたという原因で、母親に何時間もたたかれて、腎臓衰弱になったそうだ。

このような問題にたいして、誰でも平気で見ていられない③だろう。もっと考えると、問題は「点数」を中心とする教育制度にあるではないだろうか。中国の教育制度について、反省しなければならないだろう。

というのは、中国の教育制度は、「試験制」を土台として作られて、ただ点数の高い人が大学に入れるというシステムだから、学生たちは、大学に入るために、子どもの時から、先生や親たちに「おまえ、死にもの狂いにがんばなきゃ、大学に入れないぞ。」など④、耳にたこができるほど、(よく)⑤言われたりして、勉強に厭きるのは当然だろう。

教育の問題は、現在、上は国家から、下は地方まで、たいへん重視され、多額の資金が導入されているのであ

る。国家統計機構によると、現在から、2010年までに、我が国の大学入学率は9%から15%に上がる見込みだそうだが、人口が12億に超えた発展中の中国にとって、確かに、目立つ進歩と言えなければならない。しかし、中国の国情に「お粥が少ないが、御坊さんが多い」㈠という点があるので、いくら国家·地方、社会から、教育に資金を投入しても、限度がある。また、多くの学生にとっては、大学なんて、ただ夢としか見えないだろう。

したがって、別の方法を考えなければならない。キャンパスが狭い、先生が足りないとか、学校の容量はもう満杯になっている。それは確かに今存在してしる⑥事実である。でも、もう二つの事実がある。それは、今年の統計によると、中国の都市における住民の電話所有率は30%に超えたし、農村でも20%に近いそうである。もう一つ、中国の?ンターネット使用料金はどんどん安くなっているし、?ンターネットのユーザーもぐんぐん伸びる一方だ。ということである、これらのことを考えると、中国で、?ンターネットで、ネット大学を実施するのが可能と言えるだろう、いや、必要があるのだろう。

政府と有名な大学によって、ネット大学を創立し、一定の点数を取った人に国家認可の学歴を配るのである。学生は自分の能力によって、自由に勉強する。E-mailとか、ICQとか、テレビ会議などで先生やほかの学生と交流する。もちろん、定期的に実際会って、コミニケーションしてもいい。

こんなことができたら、少なくとも、いまの「千軍万馬が丸木橋を渡る」㈡に圧力を緩めるということであろう。また、身体障害者に福音をもたらすといえるのであろう。

ネット大学のシステムの設定·管理のために、いろいろな方面も考えなければいけないことは言うまでもない。みんなで、一緒に努力すれば、できるであろう。

人間とは何か

東西の人間観

人間とは、一般には人界に住むもの、すなわち動物および神と区別する語である。??ヌ語で「??ヌ」とは人間のことであり、他民族との接触がないなかで、自らを「??ヌ=人間」と呼んだのも自然なことである。古今東西にわたり、「人間とは何か」については古来多くの思想家が論じた。そこでは、人間が動物の一種であり、直立二足歩行し、道具を操ることは自明の事実であり、それ以上の特性をもって「人間とは何か」を規定しようとしたのである。

東西の人間観

【西洋の人間観】

古代ギリシャでは人間の特徴を理性に求めたが、その代表者はソクラテス、プラトン、?リストテレスである。ス??ーデンの生物学者リンネ(1707~78)が人類をホモ-サピ゛ンス(賢明な人間)と名付けたのも、ギリシャ思想を受け継いだヨーロッパでは、言葉を操り、論理的に思考する能力を持った存在としての人間という見方があったからである。

「知は力なり」と自然の因果関係を正しい知識でとらえるとき、技術を生み、自然を支配し人類の幸福が増進されると主張したベーコン(1561~1626)や、「人間は考える葦である」として、思考の優越性を説いたパスカル(1627~62)など、この人間が自然界の主人であるという対自然の考え方が、ルネサンスを経て産業革命というヨーロッパの近代につながっていったのである。

それ以外にも、道具を作り操ることに観点をおいた「工作人」、言葉に求めた「言語人」、宗教に求めた「宗教人」、根元的な生の営みを遊びにとらえた「遊戯人」などの緒論があるが、いずれも人間の特性の一面を物語っている。

しかし、人間は飢餓や戦争といった極限状態になると、人肉も食べ、殺戮も平気で行う利己的な存在であり、「人間ほど残忍な動物はいない」とも言われる。人間は「食肉類の特性をもつ霊長類」とも言えるのである。

【?ンドの人間観】

古代文明の発祥の地、?ンド、中国でも、「人間とは何か」について多くの思索が行われた。古代?ンドのバラモン教の聖典を「ベーダ」と言うが、その解釈の中から自然と人間の考察が深められ、「?パニシャッド(奥義書)」が作り出された。「?パニシャッド」で確立された業?輪廻転生?解脱の思想は、?ンドの思想?文化の中核となったばかりか、仏教とともに?ジ?諸民族に深く広い影響を与えている。?ンドのヒンド?ー教もバラモン教の教義に土着の民間信仰を吸収して大きく変貌したものを指している。そして、ベーダの神々の中には、帝釈天や弁才天のように日本で今日でも崇拝されているものもある。

古代?ンドの考え方は、「人間は苦なる存在」ととらえる点にあり、それを前世で行った行為(=カルマ、

業)ととらえるバラモン教、いろいろな欲望に執着する心(=煩悩)と考える仏教という違いがあるが、宇宙の普遍的な真理<バラモン教では「ブラフマン(梵)」、仏教では「ダルマ(法)」>を悟ることで苦から解放されるとする点は共通である。

つまり、人間を「知情意」を持つ存在と言うなら、「人間とは何か」について「知=理性」に求め、自然の因果関係を知り技術の発展させることに人間の幸せを求めた西洋と、「情意」の世界に求め、「知」ではなく自然の因果関係を悟り(=解脱)、自然と一体化すること(=梵我一如)で人間の幸せを求めた?ンドという違いが浮き上がってくる。

【中国の人間観】

古代中国についてみれば、それは「天」の思想に行き着く。この「天」とは自然界の秩序や法則であり、やがて人の心に内在する道徳を意味するようになる。これをはっきりさせたのは孔子である。その後、孟子の性善説、荀子の性悪説という議論を生むが、人間の心に備わる善への可能性を否定したものではない。孔子後で言えば、無差別平等の兼愛を説いた墨子、無為自然、この世のものは差別なくすべて等しい価値を持つ(=万物斉同)と説いた老子?荘子であろう。

しかし、共通するのは、「天=大自然の秩序?法則」ととらえ、その「天命」に従うことが人間の幸せになるとする点にある。それは、個人の「仁」や「礼」の実践と、民を救う道(=経世済民)を君主による徳治政治に求めた孔子にも、我欲を捨て、自然と一体化した生き方(=道)を追求した老子?荘子(道家)にも共通していたのである。この老荘思想は仏教の思想と共通した発想があり、それが中国人が仏教を受け入れる精神的土壌を作ったとも言える。それ以外にも春秋?戦国時代(繕8世紀~前世紀)には、法家(韓非子)、兵家(孫子)など諸子百家と言われる様々な思想家を生む。

?ンドに比べて現実を見つめる現世主義が濃厚である。祖先の霊は子孫が供養すれば、子孫に幸福を与えるという信仰はあったが、前世?来世という考えは仏教伝来まで生まれていない。なお、中国の「礼」の思想は祖先の霊を供養する儀式から生まれたと言われている。

人間とヒューマニズム

【社会的動物としての人間】

個体としての人間は弱い。しかし、実際の人間は決してか弱い存在ではなく、武器や火の使用や集団で獲物を追いつめる知恵や罠など、人間は多くの動物たちにとって脅威であった。

それは、人間は家族を基本単位としながらも、他者と共同して社会を作り、集団として行動する習性を備えていたからである。また、共同行動のための言語を発達させ、人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果、すなわち文化を次世代に受け継がせることができる唯一の種だったからである。これが、「人間は社会的動物である」と言われる由縁である。

文字の有無によって人間の社会は未開と文明に分けられてきたが、文字もまた、口承では伝えきれない多くの情報を次世代に伝える道具の一つである。人間は人間の作った社会のなかで育ち、生きるための言語や技能を習得し、その社会特有の形で教育を受ける。人間は一定の社会に適応する価値観をもつように期待され、生活も社会の文化の影響を受け、着衣も強制される。つまり、社会とは、そこを離れて人間は生きていけない「人間的自然」なのである。

【人間とヒューマニズム】

人間ほど残忍で利己的な動物はいないといわれながらも、他方で、社会的動物である人間は、日常的に他人に尽くし、弱者を扶助し愛護するなど利他的にも行動することができる唯一の動物である。多くの動物では老いて生殖能力のないものは死んでいくが、子供や老人は社会の庇護により生存し、老人の知恵と経験をその社会に十分に生かすこともできる。そこにヒューマニズムの根源の姿をみいだすことができる。

ヒューマニズムは個体としての人間が生まれながらに備えた資質ではなく、人間社会がもつ相互扶助の本質から生まれたものなのである。ヒューマニズムを一言で言えば、「認め合い?助け合い?分け合う」心であり、人間の共同社会が生み出したかけがえのない文化である。?ンドの狼に育てられた少女の例を挙げるまでもなく、狼の育てられた人間の子は、狼の野生のまま育つのである。

ところが、私たちが住む現代社会よりも、現代人が「未開部族」とさげすむ部族社会の方が、今でもはるかに助け合い、分け合う社会であり、病者をいたわり、老人を尊敬し、また感情豊かに、自然と共生しながら生活している事実は何を意味しているのだろうか。私たちが豊かな消費生活を手に入れる反面で、また多くの心の豊かさを失ったことを、今もう一度、思い起こす必要があるだろう。文化の豊かさは、物質面の豊かさからだけ測ることはできないのである。

例えば、日本には、古来、神社のお祭りに使われる「ひょっとこ」の面があるが、面の顔かたちでわかるよ

うに知恵遅れの男を表している。この「ひょっとこ」の語源は「ひおとこ(火男)」であり、当時の原始社会では、きわめて大切な火を守る仕事を分担していたことを教えている。その社会では、老人も子供も障害者もそれぞれの役割を持ち、社会全体で守りあい、助け合って生きていたのである。

個性と??デンテ?テ?

■青年期の意義

発達心理学上の用語としての「青年期」は、児童期と成人期との中間の時期で、男子では平均14、5歳から24、5歳まで、女子では平均12、3歳から22、3歳までを意味する。まず、それは第二次性徴と言われる身体的?性的な変化に始まる。

それは児童期までの比較的安定した人格のに大きな動揺を与えるので、さまざまな心理的特徴を生じさせる。この期のことを「第二反抗期」とか「心理的離乳」とか呼んでいる。青年は自分でも理由のつかめない不安、いらだち、葛藤、怒りなどを感じ、これが大人社会に対する反抗として現れる。青年は社会的は、いわゆるレヴ?ン(1890~1947)の言う境界人であって、成人にも子供にも属さない境界にいるあいまいな存在である。学校や家庭においては、ときにより大人並みに扱われ、ときには子供並みにも扱われる。性の目覚めはその関心を異性に向かわせるが、その思いは常に相手に伝わるとは限らず、深い孤独感に悩むことになる。また、自分の生き方を探して模索するが、親や教師が押しつける価値観との狭間で葛藤が生じる。

それは「自我」の自覚であり、母親の胎内から生まれるのを「第一の誕生」と呼ぶなら、まさに「第二の誕生」と言えるだろう。それは両親の保護から独立し、「自分が何者か、自分はどこへ行こうとしているのか」という自問自答を通して、「自分らしさ」を探している時期と言えるだろう。?メリカの心理学者゛リクソンは、それを「自我同一性」という考えで説明した。この「自分らしさ」(自我)の確立を求めて、青年はそれまで一方的、無自覚的に押し付けられた価値を否定し、目的意識をもった人格に生まれ変わろうとしているのである。

しかしこの課題は、青年の生きる時代や環境、また自分の能力によって容易に達成されない場合が多い。ここに、゛リクソンのいう「自分がなにをしていいのかわからない」「人と上手につきあえない」「自分が自分でわからない」などの現象も生む。それが極度に及ぶと、神経症その他の病的徴候となったり、中学?高校におけるいじめや校内暴力、家庭内暴力という形で表れたり、少年犯罪などを引き起こす。この自我同一性の確立までの時期をモラトリ?ムと呼び、自我同一性の確立までを「引き延ばされた青年期」とも呼んでいる。

欲求と??デンテ?テ?

【??デンテ?テ?】

人間は高等哺乳類の中ではもっとも未熟な状態で生まれる。そして社会が高度化したために、独立するまでに習得すべき知識や技能も増え、就学期間も延び、青年期もまた延びる傾向にある。学校を卒業しても定職に就かず、将来どうするというあてもないまま親に生活を依存した生活を長く続ける人も増えている。そんな人を「モラトリ?ム型人間」と呼ぶこともある。

しかし、青年が??デンテ?テ?を獲得し、自己を形成するためにはさまざまな試行錯誤の繰り返しがあり、家族や社会からその時間的な余裕を与えられる必要がある。青年期のモラトリ?ムは、この社会の中で、自己の??デンテ?テ?を確立するまでの過渡期なのである。

??デンテ?テ?というのは、一言で言えば自我実現(「自分らしさ」の実現)であるが、それは何か自分の賭けられるものを見いだし、あるいは信頼できる人を見いだすなど、社会との関わりの中でしか存在しないものである。

では、定職について家庭を持っている大人の何人が、果たしてその??デンテ?テ?を持っているのか、考えてみる必要がある。会社と自己を同一視する「会社人間」、偏狭な民族主義と自己を同一視する国家主義者、特定の政党や宗教団体と自己を同一視した人間も、ある種の??デンテ?テ?を持っているとは言える。しかし、本来の??デンテ?テ?とは「個」に立脚した自我実現であり、外の集団に心理的に依存した帰属意識ではない。いわんや、国家や企業や諸集団への帰属や地位などの「肩書き」でもなければ、収入の多少、知名度や名誉の有無でもない。その種の??デンテ?テ?は何かの理由でその集団が崩壊したり、集団の中で疎外されたり正当に評価されないなどの事態が生じると容易に壊れてしまうものである。その例は、会社からリストラを宣告されたサラリーマン、「神国」日本の敗戦に茫然自失状態に陥った多くの日本人など、枚挙にいとまがない。

今では、最後の拠り所であった「家族の崩壊」も深刻化しているのが現代社会であろう。社会の変化を示すとされる日本の離婚率(千人当たり)は、1975年の1?0から1997年の1?78へと上昇している。?メリカの4?2、?ギリスの2?9、西ド?ツの2?1よりは低いが、?ジ?諸国の多くが0?5前後であるのと比較すれば、わが

国の値はかなり高水準となっている。

また、最近では「日本人の??デンテ?テ?」を強調し、それを強い日本国家に求める国家主義的傾向が発生しているが、日本国家が過去に犯した過ちを認めることを「自虐」と感じるような感覚は、そもそも自我の確立が遅れているのである。戦前の軍国主義のように、国家と自己を同一視するような一元的価値観を??デンテ?テ?とは呼ばない。国際化する社会の中で「日本人としての私」が立脚できるのは、やはり「私」自身なのである。

青年にとって大切なのは、「自分が何をしたいのか」、”must”よりも”want”を見つけることであろう。それは百人百様であって、人それぞれに夢も自己実現の方法も違う。自分に充足感がある生き方を見つけることができれば、それでいいのである。「一歩先を歩かなければ、一歩先は見えない」のであり、試行錯誤を恐れないことである。それは容易なことではないが、失敗なしで、それを見つけた人はいない。

【欲求と自己実現】

「夢を持つ」ということは、自我実現(=自己実現)の欲求を持つことに等しい。これを、マズロー(1908~70年)の「欲求の階層的体制」を通して見てみよう。

欲求には、まず飢えや乾きや睡眠などの生理的欲求(一次的欲求)があり、これが人間の行動の根底に存在する。この最下層の欲求が満たされなければ、人間はその欲求を満たすために、攻撃し合い、殺し合うこともあり、理性どころか、獣性にさえ戻ってしまう。飢餓や貧困地域に地域紛争が再三勃発する原因はここにあり、最低限の生理的欲求さえ満たされていないことが多いからである。その上に、病気やけが?災害などの様々な危険から身を守ろうとする欲求、つまり安全の欲求がある。

しかし、人間の幸せはそれだけで満たされるわけではない。「人を愛し、人から愛されたい」という愛情の欲求があり、最大のものは親子の情愛、愛し合える異性と巡り会い家族を作りたいという欲求だろう。それは、友情や幸せな周囲との人間関係を作りたいという欲求にまで及ぶ。これらは、古今東西、民族や人種の如何に関わらず共通しており、「人情に変わりはない」のである。ここまでが幸せの最低条件ということもできるだろう。

次にあるのが、他人や社会から認められたいという欲求であり、地位?名誉?財産?社会的評価を得たいという尊敬の欲求であり、通常、「成功」と呼ばれているものである。これは、個人が生まれ育った環境や文化によって、影響を大きく受けるものであるが、資本主義世界では「金=収入」の多少や社会的地位の高低が問題とされることが多い。それが満たされると、自信や満足感が得られ、それが満たされないと、劣等感や自己嫌悪の感情が生まれる。この社会の中での??デンテ?テ?というのは、愛情の欲求から尊敬の欲求、これらの社会的欲求(二次的欲求)と深く関わる概念とされている。しかし、仮に名利を得たとしても、そこは浮き沈みの激しい競争社会であり、地位や肩書きや財産は、常に「失う恐れ」があり、不安と闘いの毎日であろう。

しかし、人間には大きな理想や目的の実現のために、献身的に生きる生き方も存在する。名利や成功への執着を離れ、自分らしい生き方を追求する人生も存在する。それを心理学では自己実現の欲求と呼ぶが、どちらも最善の自己になろうとする欲求である。それは他者の評価に左右されない世界であり、真の??デンテ?テ?とは、この自我実現、すなわち自己実現のプロセスの中にある。「得た」結果にではなく、自己実現を目指す終わりなき過程に存在する。

適応と個性の形成

【適応とステレオタ?プの違い】

人間が社会的動物であり、社会を離れて人間は生きていけない存在である限り、その社会特有の形の教育を受け、人間は一定の社会に適応する価値観をもつよう期待される。特に、家族?学校?会社など準拠集団の集団内の文化を体得し、集団の暗黙の規準に同調して行動することを求められる。もし、その社会の道徳、常識や法律などの社会規範から逸脱すれば、非難を受けたり罰せられる。

学校教育というのは、社会に適応する言語や技能を習得や共通の価値観をもつようにするための機関と言える。しかし、不登校児の増大や青年の「ひきこもり」などの社会現象は、親の過重な期待や、受験競争、管理的色彩が強い社会への反発や異議申し立てという意味を含んでおり、単なる「社会的不適応」と言えない場合が多い。社会の仕組みやあり方のなかに、子供や青年がのびのびと自己を形成させていく機会を奪う要素があるとも考えられるからである。

社会には、「学生はこうあるあるべし」や「競争こそ社会進歩の原動力」のような、暗黙のうちに固定したステレオタ?プ(紋切型)の考え方が存在し、それが偏見や差別意識を生み出すこともある。これらが青年が自分なりの考えをつくり出したり、自分らしい生き方を選択することを阻害することがある。適応とは、「長いものには巻かれろ」と集団に無条件に従うことでもなければ、大勢に順応するような受動的なものでもない。

むしろ、集団のステレオタ?プ(紋切型)発想を破り、新しい発想で集団を作りかえる能動的適応こそ適応であり、今の時代に何より必要とされているのは、この創造的で能動的な適応であろう。

【自我と防御機制の心理】

現代社会は生理的欲求は満たしやすいが、社会的欲求の充足には多くの困難を伴っている。好きな異性にその愛が受け入れられるとは限らないし、自分がしたいと思っても親や教師から禁止されることもあるし、自分の努力が会社には認めてもらえないなど、さまざまな欲求不満(フランストレーション)が生じる。二つ以上の欲求が衝突して、どうしていいのかわからなくなる葛藤(コンフリクト)も生じる。現代社会はこの欲求不満と葛藤が蔓延している。これらに直面したとき、状況に応じた適切な行動をとることが適応であるが、常に合理的解決の道が見つかるとは限らない。そのとき、人間には不安や緊張を減退させて、自我の統一を守るための防衛機制という無意識の心理作用が起こる。これらは、精神分析学を創始したフロ?ト(1856~1936)によって名付けられた概念である。合理的解決には、自分の能力が現在どれくらいか予測できる。自分が何をすべきかを知っている。何をすれば最適な結果に至るかがわかる、問題解決の実行過程を目標との関連で点検できるなどの認知が必要であるが、「主体としての(観察する)自我」と「客体としての(観察される)自我〕」の統一性が必要となる。この認知は、だれでもいつも完璧に働かせることができるわけではなく、大人でも知識や経験不足の領域では認知パニックを引き起こす。

防御機制の代表的なものは、嫌なことを忘れようとする抑圧、他人のせいにする合理化、虚勢を張ったり反対の行動をとる反動形成、他人やドラマの主人公と自分を同じものと考えたり、自己が属する集団と同じものと考える同一視(「摂取」と「投射」がある)、お酒や遊びやゲームなどで苦しさから逃げようとする逃避?退行、別の目標や対象を持つことで越えようとする置き換え(「代償」と「昇華」がある)などであるが、いずれにせよ、防御機制というのは欲求不満や葛藤を無意識の世界に押し込めることであって、現実に直面している問題を根本的に解決することにはならない。しかし、人間が人間である限り、さまざまな防御機制は無意識のうちに起こることであり、一概に悪いことだとは言えない。気分転換とか、旅に出るとか、一時的に待避することも必要なのであり、疲れたときには無理をしないでゆっくり休むことも大切である。

しかし、この防御機制によっても自我が維持できなくなったとき、うつ病、過食症や拒食症、いじめ、家庭内暴力、対人恐怖症、反社会性人格障害などとなって現れる。

なお、年齢が若いほど学習力(=知性化)があるが、抑圧?抑制が少ないことが攻撃的行動や反抗として現れやすい。逆に年齢が高まるにつれて、学習力が低下し、抑圧?抑制が増え、いわゆるストレスとなって蓄積する傾向が多いと言われている。このストレスは40~50代にはピークを迎え、現代病とも言える「うつ病」の増加となって現れている。現代は様々な「心の病気」が増加しつつあるが、それは病気や老後への不安や、リストラへの不安など、外的な要因によることが多く、臨床心理学的でだけ説明できるものではない。

【個性の形成と学習】

個性は性格、あるいは人格(パーソナリテ?)と同じ意味で使われることがある。あの人は外向的だとか、内向的だとか、協調的だとか、のんきだとか、このような性格は遺伝的な気質を中核として、多様な環境の影響を受けて形成される。その第一は家庭環境で、とくに幼児期の親のしつけや家庭の雰囲気は、「三つ子の魂、百までも」と言われるように、決定的な影響を与える。幼児期の虐待がPTSD(外傷後ストレス障害)や多重人格を生むという報告もある。

第二に学校環境がある。そこでは教師やクラスメートとの関係が機軸であるが、学習や友だち作りやスポーツなどの面での社会的欲求が生まれ始めるときである。画一化な教育は画一的な「いい子、悪い子」の評価を持っており、子供の個性を多面的な尺度で評価することを不可能にする。しかも、そこには受験という競争社会が存在し、子供自身の学習適正や家庭の教育投資力の差も現れ、差別選別が生じてくるのも事実である。子供たちは防御機制も身につけるが、一方では他者への攻撃的行動としての「いじめ」や、逃避の一種である不登校などの現象も現れる。こうした環境への適応の違いや経験を通して、教義の性格や人格が形成される。

第三に社会環境がある。気候風土の違いも性格に影響を与えるし、文化の違いは国民性の違いなどによって、習慣的性格を生む。更に、どのような仕事に就き、どのような役割をしているかによる役割性格も生む。このようにして形成された個人の性格や人格は、他者から区別される個性となって現れる。

この個性?パーソナリテ?の形成は、環境要因に運命論的に決定されるものではなく、環境への適応や、練習や試行錯誤、失敗の教訓化などの「学習行動」を通して進められるのである。その学習された行動が安定し持続する場合は習慣(悪いケースは「癖」)といわれるが、その学習には、先行条件として、個々人の動機、態度、情動、気質や認知力が影響する。

学習はまず「模倣」から始まる。やがて知識の摂取や試行錯誤、練習と習得、更に課題解決のための行動な

どへと進む。この全過程が学習である。学習というのは、学課の勉強に限られるのではなく、広く生活の全般にわたっているのである。

人の知の世界は、視聴覚や情意の世界が密接に関係しており、知覚現象や「そうしたい、そうしよう」と思っていない学習は受動的になり、短期記憶として一時的に蓄えられるだけで、すぐに消えていく。逆に、自分が自発的に経験?学習したことは長期記憶となり、習慣化されれば個性となる。こうして作られた個性は、個体が持つ第二の自然と言うこともできる。それは学習によって変化もすれば、発展もするし、あるいは退化もするものである。

今日の学校教育の最大の問題は、学習を狭くとらえたため知識偏重になり、人格形成という面をおざなりにしてきたことにある。教育の場は自発的創造の精神に支えられた人間的な共同体であり、子供たちが学校という場で結ばれた子供社会の中で、生き生きと個性を伸ばし合える場であることが大切である。画一的評価を押しつけや、行きすぎた競争は歪みを生む。

現代の生命倫理

■生命の倫理と偉大な個性たち

現代に偉大な思想と足跡を残した人々がいる。ここでは開発途上国で、病気や貧困?飢餓、内戦などの問題を抱えて苦しんでいる人々のために、自分の生涯を捧げた四名を代表として取り上げたが、世界ではほかにも無名の多くの人たちがこうした献身的な活動をしている。おそらく、真の??デンテ?テ?を持つ人々というのは、こうした人々であろう。

【シュワ?ツ?ーの思想と足跡】

シュワ?ツ?ー(シュバ?ツ?ー/1875―1965)はド?ツの神学者であり、音楽家でありと、医師でありと多方面で活躍した人である。

シュワ?ツ?ーは当時ド?ツ領、現在フランス領のカ?ザースベルクの牧師の家に生まれた。1900年神学博士となるが、神学者としてのシュワ?ツ?ーの思想の中心は「生命への畏敬」である。それは、神の愛によって生かされて生きる存在としての人間、思弁を捨てて他者のために生きようとする意志に「倫理」を求めた。シュワ?ツ?ーの考えは教会的神学からは過激な自由主義と危険視された。

29歳の時、白人に支配されて悲惨な生活に苦しむ?フリカの人々のことを知り、医学を勉強して、1913年に医学博士となる。その後、伝道会派遣の医師として妻と一緒にランバレネ(当時フランス領コンゴ/現ガボン共和国)に渡り、全財産をなげうって診療所を作り、医療事業を開始する。第一次世界大戦勃発のため捕虜として抑留されて、一旦医療事業は挫折するが、戦後、文筆活動やパ?プ?オルガンの演奏によって資金を調達し、再び1926年再度ランバレネに赴いて病院を再開した。第二次大戦中もずっとランバレネにとどまり、体力の限界と薬品物資の欠乏を押して医療事業に専念し、現地の人たちから「密林の聖人」として親しまれたが、1965年9月4日ランバレネにて亡くなった。

1952年度ノーベル平和賞を受けた。シュワ?ツ?ーの偉大さは、自らの思想を具体的な生活実践を通して生涯貫いた点にある。晩年のシュワ?ツ?ーは東洋思想にも触れ、「植物も動物も人間も、すべての生命は神聖であり、尊重されねばならない」と、人間の倫理は自然界の倫理の一部に過ぎないと、「生命への畏敬」を全自然へ普遍化した。そして、世界平和を呼びかけ、原子力による世界危機に対して核兵器の廃絶を説いたばかりでなく、地球の環境保全も呼びかけた。

【ガンジーの思想と足跡】

ガンジー(1869―1948)は現代?ンドの政治指導者であり、思想家である。ガンジーは?ンド西部カーテ??ワール半島にあった小藩王国ポールバンダルの宰相の長男として生まれた。4年間ロンドンに留学し、法廷弁護士の資格を得て、93年に、訴訟事件の依頼を受けて南?フリカのナタールに渡るが、これが彼の人生の転換点になった。そこで働く?ンド人年季雇用労働者たちの悲惨な生活と無権利状態を見たガンジーは、彼らの市民権獲得のための運動を指導することになり、22年間ここに滞在し、自ら「サテ?ヤーグラハ(真理の把握)」と名づける大衆的な非暴力的抵抗闘争を展開し、成功へと導いた。

第一次世界大戦勃発直後の1915年1月に、?ギリス経由で?ンドに戻った。南?フリカ時代に書かれた『ヒンド?スワラージ(?ンドの自治)』(1909)という小冊子にはその後の彼の理想が凝縮されているが、第一次大戦後、19~22年に展開された第一次サテ?ヤーグラハ(非暴力的抵抗)闘争、ついで30~34年には、?ギリス支配の一つの象徴としての食塩専売の侵犯に始まる第二次サテ?ヤーグラハ闘争(「塩の行進」)を指導し、農民大衆を含む?ンド内のあらゆる階級、階層の人々を未曽有の規模で反英政治運動へと結集していった。ま

た、その運動を国民会議派へと結集し、?ンド最大の大衆的民族運動組織として成長させた。

また、?ンドの直面する多くの社会問題の解決に取り組んだ。1920年代から始まる全?ンド紡糸工連盟設立による農村手工業の発展、30年代からの不可触民(「ハリジャン―神の子」)と彼はよんだ)解放の運動、ヒンド?ー?ムスリム間の統合、新教育運動などだが、これらは「建設的プログラム」とよばれた。しかし、ムスリム連盟の指導者M?A?ジンナーとは鋭く対立し、そのパキスタン建国論に反対したが、結局マ?ントバッテン裁定(1947年6月)に盛られた?ンドの分離独立案を国民会議派指導部が承認するのを抑止できなかった。そのため、?ンド独立後の1948年1月、狂信的ヒンド?ー主義者の凶弾によって倒れた。

ガンジーの行動理念は、「サテ?ヤーグラハ(真理の把握)」にあるが、あらゆる存在の生命を尊重して、殺傷せず、肉食をせず、戦争に反対する非暴力主義こそ思想の核心であった。彼は、たとえ正しい目的のためであれ、暴力は暴力を生み、やがて人類を破滅に導くものであるから、正しい目的は正しい非暴力的手段で実現しなければならないとした。このガンジーの思想はソローの「市民的不服従」、トルスト?の「非暴力」などから影響を受けたと言われているが、彼の偉大さは、それを個人的な行動にとどまらず、白人の植民地支配や人種差別、カースト制撤廃などの社会運動として、おおきな非暴力不服従運動へと発展させたことにあるだろう。

社会改革、あるいは革命と言われるものは、古今東西、流血を伴うことが少なくない。それはその社会の旧支配層が軍隊(武力)を握っていたことによるが、「暴力は暴力を生み、暴力で生まれた政権は、また暴力で倒れる」というガンジーの指摘は今日も不朽の輝きを持っている。

ガンジーは「マハートマー(偉大なる魂)」「ラーシュトラ?ピター(国の父)」などいくつかの呼称をもち、今も?ンド人大衆の尊敬と親愛の的となっている。しかし、ガンジーが願ったヒンズー教と?スラム教の対立は依然として解決されず、カースト制度もまだ厳然と残っている。

【キング牧師の思想と足跡】

キング牧師(Martin Luther King, Jr./1929―68)は?メリカ合衆国のバプテ?スト派の黒人牧師で、?トランタに生まれた。

1863年、リンカーン大統領は奴隷解放宣言を出して、奴隷制度は?メリカ社会から消えたが、学校?教会?レストラン?仕事など社会生活のあらゆる場面での人種差別はなくならなかった。この黒人に対する人種差別の打破、地位向上に大きく寄与したのが、キング牧師である。

キング牧師はバスの座席の人種分離に反対して、、?ラバマ州モントゴメリーで1955年12月から1年以上にわたって闘われたバス?ボ?コット運動の指導者として注目された。57年には南部キリスト教指導者会議を組織、奴隷解放100周年を記念する63年のワシントン行進での「私には夢がある」演説は有名である。翌64年ノーベル平和賞を受賞した。

キング牧師の思想と行動は、二つの時期に大別される。前期は、バス?ボ?コット運動の開始から1965年のセルマ‐モントゴメリー行進に至る時期、キリスト教の教えとガンデ?ーの市民的不服従思想を結合した非暴力的直接行動によって、法的、制度的な差別の打破を目ざした。後期は、66年のシカゴにおける仕事や住宅の確保、学校における人種統合を要求する運動に代表される。それは実生活の諸領域に存在する差別や貧困の打破を目標としている。

キングはベトナム戦争反対の立場を明確にすると同時に、貧しい未組織の黒人労働者の闘争を積極的に支援するようになっていった。68年4月4日、テネシー州メンフ?スの清掃労働者のストラ?キ支援中にキングは凶弾に倒れ、暗殺された。1983年、その業績を記念して、彼の誕生日にちなみ、1月の第3月曜日が国民祝日と定められた。彼の行動は一人?メリカ社会における黒人解放運動ばかりでなく、世界の人種差別撤廃のための取り組みに大きな足跡を残している。

【マザー?テレサの思想と足跡】

テレサ(Mother Teresa/1910―97)は、旧ユーゴスラビ?(現マケドニ?)のスコピ゛出身。1928年??ルランドのカソリック?ロレット修道会に入り、志願して?ンドに渡った。

1929~48年カルカッタ(現コルカタ)のセントメリー高等学校の教師、校長を務めるが、46年神の召命を受け、「貧しい人のなかでもいちばん貧しい人たちのために一生を捧げる」ことを決意する。

48年?ンド国籍を取得し、ロレット修道会を離れ、ひとりでカルカッタの貧民街で活動を始める。50年「神の愛の宣教者会」女子修道会を創立、以来「マザー?テレサ」とよばれる。「死を待つ人の家」「孤児の家」「救癩(活動」の施設を?ンド各地に展開、1979年ノーベル平和賞を受賞する。?ンドのみならず世界各地に施設

を広げ活躍する。

1997年9月5日、心臓発作のため87歳で亡くなった。カルカッタ市内で国葬され、遺体は修道会本部に埋葬されている。彼女の思想は「人類愛と奉仕」にあるが、「人々を救うのではなく、人々に奉仕し、自分が教えるのでなく、人々から学ぶ」こそ大切だと教えた。貧しい人たちにとっては、物質的な貧困そのものよりも、人々から見捨てられ、必要とされていないことが最も苦しいことであり、奉仕とは与える側の同情ではないことを身をもって教えた人である。

このマザー?テレサの精神は地域で医療や福祉?教育などを取り組んでいるボランテ??活動や、途上国で病気や貧困?飢餓、経済自立のために取り組んでいるNGO活動などを行っている人々に受け継がれて今日に至っている。誰もがマザー?テレサのように無私に徹することは容易なことではないが、ひとりひとりができることから、少しずつ力を出し合えば、人間社会は心の豊かさと連帯感を取り戻していくことだろう。

作文指導について(1)-日本と中国の指導の違い-

今、私は黒龍江省に滞在して、高校生に日本語の会話や作文を指導しています。ここで生徒が書いた作文をたくさん読んでいるうちに、日本の高校生が書く作文と中国の高校生が書く作文の間に大きな違いがあることに気がつきました。そこで、今回は「作文指導に見る日本と中国の違い」というテーマでお話したいと思います。

中国の高校生の書く作文を読んでいると、生徒同士が相談しながら作文を書いたのではないかと思うほど、内容も表現もよく似た作文がたくさんあることに気がつきます。例えば先週、「私が尊敬している人」という作文を書かせました。その作文の60%は尊敬する人に親を挙げ、35%は教師を挙げていました。「親を尊敬しています」と書く人が多いのは日本の高校生でも同じです。ところが、中国の生徒の作文のほとんどは「親は私を生んでくれた人です」「苦労して私を育ててくれました」「だから尊敬しています」と書いてあるだけなのです。

このような作文は、日本ではまったく評価されません。たいていの親は子供を育てるのに苦労しているのです。だから、子供が、自分を育ててくれたことで親に感謝や尊敬の気持ちを持つことは自然なことです。そして、それは全人類に共通するごく一般的なことであって、「私」が親を尊敬している特別な理由とは言えません。この作文は「私が尊敬する人」という題名ですから、作文の内容も「私」の実体験を書かなければ評価されないのです。日本人の生徒がこのような作文を書く時には、「私が」親を尊敬する理由を「具体的に」書きます。つまり、「このようなことがあった。その時親はこのようなことをした。それから私は親を尊敬するようになった」という具体的な事例を書かなければ、日本ではいい作文とは認められません。

つまり、日本の作文指導では、まず、個人的な経験や体験を書き、それに対して自分がどのように感じたのか、どのように考えたのか、ということを書くことが重要だとされているのです。したがって、その内容は一人ひとりで異なったものとなります。どんなに文の表現がうまくても、それが「その人」が創作した文でなければ評価されないのです。そのため、日本では、「文章は下手だが、内容はすばらしい」という評価を受ける作文があります。それに対し、中国の書店には「優秀作文集」がたくさん売られていて、みんなその作文の表現をまねて文を書きます。中国の作文指導では、表現の巧みさが評価の対象となるからです。しかし、日本の書店には、ほとんどそのような本がありません。人の文のまねではなく、自分自身の文を書け、というのが、日本の作文指導だからです。

このような日本の作文指導にも、いろいろな欠点があります。「名文」を参考にせず、自分だけで書くので、文の上手な人と下手な人の差が大きくなり、中には大学を卒業したのに、驚くほど稚拙な文章しか書けない人もいます。したがって、私は中国のような「表現を学ぶ作文指導」を日本も一部取り入れるべきではないかと考えています。しかし、同時に、中国の作文指導にも「個性を重視する視点が足りない」という欠点があると思います。特に「素質教育」という考え方から言うと、中国も日本の作文指導を取り入れるべきでしょう。少なくとも、日本語教育の一部として作文を書かせる時には、「個性的な内容の文章を書くこと」を指導すべきだと思います。

中国共有3491名“奥运”

日本語なら「五輪」にあたる中国語の「奥運」くん、「奥運」ちゃんが中国全体で3491人い

る――。中国紙?競報がこんな調査結果を伝えた。

与日语中的“五輪”相对应的汉语词汇是“奥运”,据中国的《竞报》调查显示,全中国有3497个叫“奥运”的人。

「奥運」は、中国語で「オリンピック」を意味する「奥林匹克」と、スポーツ大会を意味する「運動会」をつなげた言葉の短縮形だ。日本語の「五輪」のように一般的に使われている。

在汉语中“奥运”是由表示“OLYMPIC”的“奥林匹克”和表示“体育运动大会”的“运动会”组合而成的合成词的省略形式。这个词就如同日语中的“五輪”一样,在中国被广泛使用。

全国公民身分番号問い合わせサービスセンターによると、「奥運」という名前の人は中国全体で男性が3216人、女性は275人。来夏に五輪を開催する北京には6人がいる。北京五輪開催が決まった01年前後に生まれた子どもに多いという。

根据全国公民身份证号码咨询服务中心的数据显示,中国共有3216名男性和275名女性名叫“奥运”。其中,在明年夏天即将举办奥运会的城市北京就有6人叫做这个名字。据说这些人中有很多是在正式决定由北京举办奥运会的01年前后出生的宝宝。

中国では、朝鮮戦争の時に北朝鮮を援助したことから「援朝」、文化大革命の際にはスローガンの「破旧立新」から「立新」といった名前を子どもにつけることで、時代の大きな出来事を記録しようという親が少なくないという。

据说中国的很多父母为纪录当时发生的大事,会用事件名称给孩子取名。比如朝鲜战争时期,因中国的“抗美援朝”而出现的“援朝”,还有“文化大革命”之时,从标语“破旧立新”而来的“立新”等。

「援朝」も「立新」もいまではほとんど名づけられなくなったが、「五輪」ちゃん、「五輪」くんは来夏の北京五輪開催を機に再び増えることになりそうだ。

“援朝”也好,“立新”也罢,如今这些名字也都不时新了。但小“奥运”们看来却极有可能借明年夏天北京奥运开幕之机再度流行起来。

日中互译《生と死》

いくら元日でも、明るく楽しいことばかり考えているわけには行かない。――去年は地球上で実にたくさんの人が生まれ、たくさんの人が死んだと思う。生まれた方は同じだが、、死に方はみな異なっている。今年もたくさんの人が生まれ、たくさんの人が死ぬだろう。そんな思いが、偽らぬ年頭所感としてやって来る。こうしたことは、しかし、どうすることも出来ない。厳然とした事実である。虽说是元旦,也不能光想一些舒愉快心的事。——去年在这个地球上是实实在在地有很多人出生,又有很多人死去的。出生的方式大体相同,而死去的行状却是千差万别的。今年也会有许多人出生,许多人死去吧。毫无疑问,这就是涌上我心头的新年感想。这种事情是无法改变的。是严酷的事实。

こうした人間交替の思いも、新年だけの特別な物である。平生はこんなわかりきった事実に感慨を託すことはない。私はここ何年か、いつも元日の朝、こんなことを考えている。大勢生まれ、大勢死んでいく。次々に人間は交替し、人間によって作られた時代も交替していくのである。こうした思いがやって来ると、いつも天山の山襞の中の小さい湖、?シククルこの畔に眠っている十九世紀の探険家のことが思い出されて来る。この世の中に、いやに安定した生と死を持った人間も居たものだと思う。その探険家というのは、ロシ?の西域探険家プルジ?ワリスキーである。十九世紀中頃、モンゴル、ロブノ-ル、チベット、ゴビ、青海と、何回も?シククル湖畔の道を通って、天山を超えている。そして彼は湖畔に於いて歿するが、その遺言によって湖岸に葬られている。

这种人类更替的感慨是新年所特有的。平日里,是不会对这样明白无误的事实感慨万千的。我在最近这几年,

每逢元旦的早晨,就会想起这样的事情。有许多人出生,又有许多人死去。人类不断地生死更替着,而由人类所创造的时代也在不停地更替向前。这样的念头一出现,我总是要想起一位长眠在天山山坳中的一个小湖——伊西可可儿湖湖畔的,十九世纪的探险家。世上还真有生与死都非常安定的人。那位探险家就是俄罗斯的西域探险家普鲁捷瓦里斯基。在十九世纪中叶,他穿越了蒙古、罗布麻、西藏、戈壁、青海等地,曾多次经伊西可可儿湖湖畔的小道而翻越天山。最后他死在该湖畔,遵照其遗嘱人们将他葬在了湖岸上。

このプルジ?ワリスキーの場合は生と死とがばらばらにならず、美しいピンで留められている感じである。こうした生と死の結びつき方のできるのは、十九世紀で終わってしまったのかもしれない。現代はみな不本意に生き、不本意に死んでいっているように思われる。

普鲁捷瓦里斯基的生与死完美统一,就象是用一根美丽的别针串在一起似的。这种生与死相协的方式,或许到了十九世纪就结束了。而如今,大家都是不得已而生,不得已而死。

孤独

冬空を過ぎ去った一つの鳥のかげのように自分の前をちらりと通り過ぎただけでそのまま消え去るかと見えた一人のたびと、――その不安そうな姿は時が経つにつれていよいよ深くなる痕跡を菜穂子の上に印したのだった。その日、明が帰っていた後、彼女はいつまでも何かわけのわからない一種の後悔に似たものばかり感じ続けていた。

何故あんなに相手にすげなくして、旅の途中にわざわざ立寄ってくれた者を心からの言葉一つ掛けてやれずに、帰らせてしまったのか、とその日の自分がいかにも大人気ないように思われたりした。そう思う今でさえ、彼女の内には、もし自分がその時素直に明に頭を上げてしまっていたら、ひょっとしてもう一度彼と出会うような事があった場合、そのとき自分はどんなに惨めな思いをしなければならないだろうと考えて、一方では思わず何かほっとしているような気持ちも無い訳ではなかった。

菜穂子が今の孤独な自分がいかに惨めであるかを切実な問題として考えるようになったのは、本当にこの時からだといってよかった。彼女は、丁度病人が自分の衰弱を調べるためにその痩せさらばえた頬へ最初はおずおずと手をやってそれを優しく撫で出すように、自分の惨めさを徐々に自分の考えに浮べ始めた。

孤独

宛如一只掠过冬季天空飞鸟的影子一样,从自己的身前一晃又消失得无影无踪的一位游客——这种似乎不安的身姿随着时光的流逝,越来越清晰的印在了菜穗子的脑海里。

那天,明离去之后,一种莫名其妙的似乎后悔的感觉一直缠绕着她。

自己为什么那么无情,发自内心的话一句也没说就将一个旅途中特意来看自己的人打发走了呢?她觉得那天自己的行为真不像是成年人的做法。可是即使持有这种想法的现在,每当想起那天如果坦率的向对方道歉的话,也许两个人又会再一次相逢,那时自己又将会感到多么的凄惨,因此,在其内心深处反倒有一种如释重负之感。

也可以说,就是从那时起,菜穗子才作为一个切实的问题,考虑自己目前的孤独是多么的悲惨。她就像病人为了检查自己身体的衰弱一样,最初提心吊胆的用手轻轻的抚摸着那瘦削的面颊似的,将自己的凄惨的心情慢慢的浮现于自己的脑海里。

高考日语作文汇总

1、高考作文要求学生根据所给出的信息,用日语写一篇300~350字的短文。提供信息的形式有图画、图表、提纲、词组、短语、短文等。 启示: ①必须要认真阅读题目给出的信息(解说)。 日语作文一般会给出日文题目(有时也不给),之后都会给出有关这一话题的一段解说,这段解说可以引导学生较为全面认识这一话题,对于那些对该话题了解较少的学生,也可以起到扩展其背景知识的作用。而且一般来说这一段解说总会给出一些观点或倾向。因此,考生一定要认真阅读给出的这些信息,多读几遍,肯定会有助于你打开思路。 ②字数必须要符合要求。 这一点相信大家都强调过,也确实很重要。字数太多、太少都是会扣分的,这样的失分确实很可惜。要求是300~350字,教主认为要求学生写300字就可以了,除了日语写作能力很强、希望得高分的学生外,一般考生没必要写到350字,多写容易多出错。 2 《高考日语考试大纲》对高考作文的要求是: (1)准确使用语法和词汇,书写、标点规范。 语言的准确性是写作中不可忽视的一个重要方面,因为它直接或间接地影响到信息的准确传输。应用语法结构和词汇的准确程度是写作部分评分表中的一项重要内容,书写和标点符号运用得正确与否也会在一定程度上影响考生的成绩。 (2)使用一定的句型、词汇,清楚、连贯地表达自己的思想。 任何一篇文章都需要有一个主题,考生应该围绕主题,借助一些句型、词组等的支持,清楚、连贯地表达自己的思想。 启示: ③准确性第一。 语言表达(词语、语法)的准确性必须要注意。高考评分标准对表达错误有明确的规定,而且在实际的阅卷过程中,与内容相比,语言表达的错误更容易受“关注”,减起分来也是最“方便”最“容易”的。因此,考生一定要注意避免使用没有把握的表达,提高日语的正确性。在语言表达方面,与其选择“冒险”,不如选择“保险”。 ④需要有鲜明的观点。 议论文自不必说,就算是其他文体,也需要有自己明确的看法,在表达上也需要清楚、连贯。高考阅卷时,每位阅卷老师的工作量非常大,很快就要看完一篇文章,也会出现疲劳的问题,

日本语作文教室_02 私の家族

2私の家族 私の父は、○○○○という繊維関係の会社で、販売部長をしています。今年57歳ですから、まもなく退職です。父は毎朝私たちよりも早く会社に出かけ、家に帰るのも夜遅くなることが多いです。母はそんな父の健康を心配していますが、父は「退職したら、のんびりするよ」と笑うだけです。 父は会社では責任感が強くて、恐い部長だと言われているそうです。しかし、家庭ではともやさしい父で、子供のころ、休みの日にはよく私を公園地に連れて行ってくれました。しかし、この数年、父の仕事が忙しく、いっしょに外出する機会も少なくなりました。私はそれが少しさびしいです。 私は今年の10月に大学を卒業します。これまで、私たちのために一生懸命働いてくれた父に心から感謝しています。これからは、両親にも恩返したいと思っています。ですから、父には体に気をつけて、ぜひ長生きしてほしいと思います。 私の母は主婦です。しかし、私が生まれるまでは、父と同じ会社に勤めていました。母の話によると、二人は恋愛結婚で、母は父の真面目な性格が好きで結婚したそうです。 母はいつも一番早く起きて、朝ご飯の支度をします。そして、父には毎日、お弁当を作って上げます。私が小さいころは、母は生まれたばかりの妹を抱えて、家事や育児できっと大変だったと思います。それなのに、今まで母の口から不満の言葉一つ聞いたことがありません。私はそんな母のことが大好きです。 しかし、中学校のころは何度も母と口げんかをしました。それは、母から「しっかり勉強して、いい大学にいかないと、いい仕事に就けないわよ」と、毎日のように口うるさく言われたからです。私も反抗期だったのだと思いますが、そんなときの母は大嫌いでした。 今、母の髪の毛には白いものがまだ目立ち始めましたが、そんな母の後姿を見る度に、「ありがとう」と心の中で言っています。 1.(~によると/~では)~どうだ ◆木村さんのお父さんは大学の教授だそうです。

日语作文30篇

私の梦 かつて、ナポレオンが「将军になる考えがない兵士はいい兵士じゃない」と言いました。そのとおり、梦がない人生は人生ではありません。 子供の时から、亲や先生や友达などいろいろな人が「あなたの梦はなんですが」と闻きました。理の当然で、人々がさめざまの梦想を持っています。私も梦がたくさんあります。 小学生制になった时、クラス担任はとても优しくて、若い女性でした。みんなだいすきでした。彼女は数学を教えてくださったので、私は 一生悬命顽张りました。长い时间を使って、ひとつの难问に回答した後の気持ちはとても高扬していました。心から数学の教师にならたいと思いました。両亲も喜んで応援してくれました。 12歳、中学校に入りました。その顷田舎の家の近くで伝统的な芝居がはやっていました.祖母も好きで、周末一绪に见に行きました。そして、私はだんだん、その芝居に梦中になりました。时々、真似たり、一人で歌ったりしました。何时でも。何処でも、音楽が闻こえると、特别な感铭がありました。 いつの间にか、俳优になりたいという考えが出てきました。私は音痴ですから、両亲に知らせると、「白昼梦を见るじゃないよ」と言われました。今思えば、当时は思春期だったからなのか、悲しいことに自分の考えに固执しました。 时间がはやくたちました。瞬く间にもう大学生になりました。今、専门が日本语の私はまた一つの梦があります。その梦とは外资企业に勤めることです。通訳でも翻訳でもいい出です。 そうすると「将来はなにをする?数学を教える?それに俳优になる?あゆいわ日本语に関して仕事をやる?」といろいろな问题が思い出されました。あれこれと思いを巡らすと、难しいですね。答えはなかなか出てきませんでした。 ところが、そんな梦がたくさんあるので、生活が面白い、目标に向かってまい进する力が强いです。梦は多ければ多いほど実现する机会も増えると思います。一つの梦が破れても、また别の梦を追うチャンスがあるからです。 さっきも言いましたように、梦を持つと问题が出てくることは否定できません。ですが、やはり、私はこれからも梦のある美しい生活を大切にしていきます。 「私の梦」(日本人は理想よりも、梦と言う言叶を使っていると思いますので。) 私はまだ子供のころ、空を见上げることが大好きでした。青々と広がっている空を、ふわふわしている云が、のんきそうに漂っていくのを见て、心が愈されるような気がします。 ですから、私はそのとき、「将来パ?ロットになりたい」と心で决めました。飞行机にのって、鸟のように、空を、云の间を缝いでいくことを、すばらしく思っていました。头が空っぽになって、すべての悩みが忘れられるようなので。 まだちっちゃいので、パ?ロットになるために、どうしたらいいのかまだ考えていませんでした。その后、パ?ロットはみんな2.0以上の视力がなければならないと闻いて、近视眼である私はただ、空しく叹くしか、しようがありませんでした。 高校に入って、私はサッカーに兴味を持ち始めました。サッカー选手たちが、竞い合っている姿に、私は惚れていました。あのスピード、パワー、テクニック、あれこそが、男のあるべき姿ではないかと、私は思いました。そして同时に、新たな梦が私の心に芽生えました。それは、「中国一のゴールキーパーになって、中国チームを世界の顶点に送るのに、私は自分の力を捧げたい」と思いました。しかし、それには、身长が必要です。 1.80ちょうどの私には、中国一は无理だったのかもしれません。大学に入って、身长がほぼ固定された私の新たな梦は、无残にも破られてしまいました。 日语 大学では、日本语を専攻しました。正直、初めの顷は、梦なんて、まだ见つけていません。目の前の道をただ走るのみ、そこには私の梦とか、意志とか、ありませんでした。勉强していく中で、ちょっとした问题に気づきました。それは、必死に勉强している人ほど、成绩が低く、ということでした。そのとき私はこっそり考えました。実は彼らは努力が足りないってわけではありません。努力の方なら、私なんかより、ずっとたくさんしていると思います。残念なことに、彼らは勉强の仕组み、つまり勉强の方法を知らないだけに、こういう「空振り」の学习を缲り返しているです。そこで、私は「将来日本语の教师になって、知识だけではなく、勉强の仕组みを、御绍介させていただきたい」という、梦を持つようになり、そして今までに至っています 私の趣味はスポーツをやる事です。色んなスポーツ中にサッカーが大好きです。普段少なくとも周に1回やっ

最新日语作文范文18篇汇编

日语作文范文 18 篇 1.「私が住んでいる部屋」 日本は土地の値段が非常に高い。そのため、家を建てるにも部屋を借りるにも、かなり费用がかかる。私がいま住んでいる部屋も、私の国と比べると、かなり高い。 6 畳の部屋に 2 畳くらいの台所トイレが付いて 3 万円である。风吕付きの部屋がほしかったが、高すぎて借りることができなかった。今でも少し残念に思っているが、しかたがない。 风吕は近くの銭汤で我慢している。だが、私の部屋は二阶の南向きで日当たりがよく、また、向かいは公园なので、环境はとてもいい。地下鉄の駅は歩いて 10 分位である。学校にも 40 分位で行けるので、だいたい満足している。 2.「私の国の季节」 日本では 1 年は 3 か月ずつ四つの季节に分かれています。1 年を通じて気候は温暖で暑さ寒さもあまりきびしくありません。山脉【さんみゃく】が本州を縦【じゅう】に走っているので太平洋侧(表日本)と日本海侧(裏日本)では気候の差が大きいです。表日本では、夏はむし暑く、冬は湿気が少なくて晴天が多いです。裏日本では冬は雪がたくさん降ります。いわゆる雪国では雪が 4 ~5 メートルもつもることがあるそうです。 北海道を除く各地は 6 月上旬【じょうじゅん】から 7 月中旬【ちゅうじゅん】にかけて高温.多湿のシーズンになります。8 月から10 月にかけては日本列岛【れっとう】の南西部は台风の影响を受けることが少なくありません。京都のような盆地【ぼんち】では降雨量は少ないですが、気温の上下【うえした】差が大きく、夏は暑く冬は寒いです。日本の大部分の地方で最もよい季节は春と秋です。桜の美しい 4 月や绿の美しい 5 月は海外の観光客も多く、また 10 月顷の红叶も魅力的【みりょくてき】です。 3.「アルバイト」 「アルバイト」はもともとドイツ语で「仕事」という意味であるが、日本では 40 年ほど前から、学生の副业の意味として使われるようになった。 现在、日本の大学生の 90%以上がアルバイトを経験しているという。そしてアルバイトのために学校を休む学生も多いそうである。 授业はやぼってもアルバイトにはいく。そういう大学生たちは何のために働いているのだろうか。あるアンケート调査によると、大学生のアルバイトは、サービス、贩売など第 3 次产业の仕事が多い。そして、「どうしてアルバイトをするのか」という质问に対しては「海外旅行をしたいから」「车を买うため」などの回答が多かった。ほかにも、「贮金をして、留学の费用にするつもり」「学费は自分でかせぎたいから」「会社勉强になにから」という回答も见られたが、ごく少数てあった。この调査结果からわかるように、アルバイトの目的は游ぶためのお金をためることが中心となっている。たとえ游びが.主な目的でも、アルバイトをすることで、労働の尊さやお金を得ることの大変さを体験できるのだから、大きな意味がある。しかし、アルバイトのためなら授业をさぼってもいいとのは问题である。 4.「病気」 日本に来て 1 か月ぐらいたったとき、病気になりました。そのときは、胃が痛くて何も食べたくありませんでした。どうして病気になったのかよくわかりません。はじめがまんして学校に行っていましたが、だんだんひどくなりました。それで、近くの病院に行きました。お医者さんは「かぜが原因で胃炎になったのです。あまり心配しないで、ゆっくり休んだほうがいいですよ」と言いました。そして注射をして薬をくれました。私は勉强が遅れるから学校を休みたくないと思いました。しかし、お医者さんの言う通りにしたほうがいいと思って、家でずっと寝っていました。二.三日したらだいぶよくなりましたが、あまり无理をしないように気をつけました。四日目に友达がお见舞いに来てくれました。病気をしないように、いつもきんと食事をして、よく休养することが大切だと思いました。 5.「スポーツ」 すもうは日本の国技【こくぎ】です。わたしは高校生の时、ドイツ初めてすもうを见ました。テレビで见たのですが、力士【りきし】があまり大きいのでびっくりしました。その时から、私はすもうが好きになって、友达とすもうの练习を始めました。今、ドイツで、20 人ぐらいの友达とすもうのクラブを作って、毎日练习をしています。私の梦は、日本のアマチュアすもう大会で优胜す

日语作文18篇(范文)

「私が住んでいる部屋」 日本は土地の値段が非常に高い。そのため、家を建てるにも部屋を借りるにも、かなり費用がかかる。私がいま住んでいる部屋も、私の国と比べると、かなり高い。 6畳の部屋に2畳くらいの台所トイレが付いて3万円である。風呂付きの部屋がほしかったが、高すぎて借りることができなかった。今でも少し残念に思っているが、しかたがない。 風呂は近くの銭湯で我慢している。だが、私の部屋は二階の南向きで日当たりがよく、また、向かいは公園なので、環境はとてもいい。地下鉄の駅は歩いて10分位である。学校にも40分位で行けるので、だいたい満足している。 「私の国の季節」 日本では1年は3か月ずつ四つの季節に分かれています。1年を通じて気候は温暖で暑さ寒さもあまりきびしくありません。山脈【さんみゃく】が本州を縦【じゅう】に走っているので太平洋側(表日本)と日本海側(裏日本)では気候の差が大きいです。表日本では、夏はむし暑く、冬は湿気が少なくて晴天が多いです。裏日本で

は冬は雪がたくさん降ります。いわゆる雪国では雪が4~5メートルもつもることがあるそうです。 北海道を除く各地は6月上旬【じょうじゅん】から7月中旬【ちゅうじゅん】にかけて高温.多湿のシーズンになります。8月から10月にかけては日本列島【れっとう】の南西部は台風の影響を受けることが少なくありません。京都のような盆地【ぼんち】では降雨量は少ないですが、気温の上下【うえした】差が大きく、夏は暑く冬は寒いです。日本の大部分の地方で最もよい季節は春と秋です。桜の美しい4月や緑の美しい5月は海外の観光客も多く、また10月頃の紅葉も魅力的【みりょくてき】です。 「アルバイト」 「アルバイト」はもともとドイツ語で「仕事」という意味であるが、日本では40年ほど前から、学生の副業の意味として使われるようになった。 現在、日本の大学生の90%以上がアルバイトを経験しているという。そしてアルバイトのために学校を休む学生も多いそうである。

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常用日语邮件范文有哪些 你知道在日企该如何写邮件吗? 你知道日文商务函件中该如何使用敬语吗?下面我就和大家分享常用日语邮件范文,来欣赏一下吧。 常用日语邮件范文一 件名:会社説明会の案内 中村一様 学業にお忙しいことと思います。 先日は、合同企業説明会にご参加くださいまして、 ありがとうございました。 この度、説明会でご面談させていただいた皆様に 弊社を深くご理解いただくため、会社説明会を開催いたします。 是非、ご参加くださいますようご案内メールをお送りします。 記 1.日時:20xx年5月6日(月) 13時~15時 2.場所:大阪府天王寺区○○○ 当社3F大会議室 (電話06-xxxx-xxxx) 3.持参するもの:筆記用具,印鑑 4.交通費:一律○○○円を支給 以上 ------------------------------------------------------ 株式会社山田商事人事部

山田太郎(ヤマダタロウ) 〒564-9999 大阪府○○市△△町11-9 2F TEL:066-9999-9999(直通) 066-9999-9999(代表) FAX:066-9999-9999 参考译文: 主题:公司说明会的通知 中村一先生 想必您最近学业应该很繁忙。 感谢您此前参加合同企业的说明会。此次,为了让在说明会上面谈的各位进一步了解本公司,我们将举行公司说明会。请务必参加,特此寄送邀请邮件。 记 1.时间:20xx年5月6日(周一)13点~15点 2.地点:大阪府天王寺区○○○ 本公司3楼大会议室 (电话06-xxxx-xxxx) 3.必带物品:记录工具,印章 4.交通费:一律报销○○○日元 以上 ------------------------------------------------------ 山田商事股份公司人事部 山田太郎(ヤマダタロウ)

日语小作文 我的家人

我的家人 小的时候,别人都羡慕我,因为我是家里最小的,除了爸妈,还有三个姐姐,其中大姐和二姐还是双胞胎。家里人都宠着我。后来,三个姐姐都结婚了,拥有了她们自己的家,过着各自幸福的生活。我成了六个外甥的舅舅。三年前,我结婚了,爱人和我都是老师,我们都深爱着彼此,也为将来的美好生活努力着。前年,爸爸病了,不能自由活动,全凭妈妈照顾。妈妈很辛苦。我们几个子女也都孝顺,尽自己的能力帮忙伺候。我们的宝宝也马上要出生了,将来的生活肯定更忙更累,不过一想到即将出生的宝宝,心里还是感觉很开心,希望他的到来能给全家带来快乐。今年过年一定要照张全家福。我爱我的家,爱我的家人。希望所有的人幸福快乐! 私の家族 子供の時、兄弟の中で一番年下なので、みんなに羨まれていました。両親のほかに、姉が三人います。そのうち、一番上の姉と中の姉は双子です。私は家族の皆に可愛がられていました。その後、姉たちが結婚して、自分の家を持って、各自の幸せな生活をおくっていました。私は六人の甥のおじさんになりました。三年前、私は結婚して、妻も私も教師です。私たちは互いに深く愛し合っていて、将来の美しい生活のために頑張っています。一昨年、父は病気になって、自由に動くことができませんでした。母は一人で父の世話をしていますが、なかなか容易ではありません。兄弟の私たちは皆親孝行で、できるだけ父の世話を手伝っています。私の子供も、もうすぐ生まれます。将来は間違いなくもっと忙しくて疲れますが、生まれる子供を思い出すと、とてもうれしく感じます。彼の生まれが家族に喜びをもたらすのを祈ります。今年の正月の時、必ず家族そろって写真を撮ります。私は家族のみんなを愛しています。すべての人の幸福と喜びを祈ります。

日语作文范例16篇

作文范例16篇 問題1 あなたは、外国の人があなたの国の母語で語りかけてきたとき、文法や言葉遣いが間違っていたら直してあげますか。それとも失礼になると考えて言わないでおきますか。 解答直してあげる 私は間違っていたら直してあげる。 なぜなら、言葉の誤用の中には、相手の誤解を生んだり心を傷つけるような言い回しがあり、その不用意な一言のせいでコミュニケーションに障害が生じるとしたら、本人にとっても不幸だと思うからだ。 例えば、日本語の「あなた」という言葉は目上の人に使うと失礼になるが、欧米の人たちは誰彼の区別なく「あなた」を使う。それが初心者ならまだ許せるが、ぺらぺらしゃべる外国の人に「あなた」と言われたら、日本人は間違いなくむかっとするだろう。それは母語と関係しているのであり、何の悪意もないのだが、言われた日本人はいい気持ちがしない。こうした誤用は誰かが指摘してあげなければ、いつまでも直らない。 従って、異なる言語や文化を持った者同士のコミュニケーションが大切な時代には、自分が間違っていたら指摘してもらうし、相手が間違っていたら指摘してあげるといった率直さが美徳となると思う。 問題2 ある外国の人は「日本人は『はい/いいえ』がはっきりしないから、理解しにくい。日本人はもっとはっきり意思表示をするべきだ」と言います、あなたはこの意見に賛成ですか、反対ですか。 解答賛成する 私はこの意見に賛成である。 確かに日本人は「はい/いいえ」をはっきり言わない傾向がある。それは相手の気持ちを傷つけないとする「和」の文化と言われるものだろうが、私たち外国人には賛成なのか反対なのか、好きなのか嫌いなのか、とても判断しにくい。 例えば、以心伝心とか、言葉を使わずに察しあう習慣は、日本社会のような同質性の高い同一民族社会では可能かもしれないが、私の国中国のように文化が異なり、言語が異なる多民族が暮らす社会ではほとんど不可能だと思う。きちんと意思表示しなければ、コミュニケーションが成立しないのである。今の日本も国際化が進んでおり、多くの外国人が住み、異文化間の交流が日常化している。そんな国際化時代には、はっきりとした意思表示や自己主張ができなければ、他人からも認めてもらえなくなるのではないか。 従って、私は日本人にはもっとはっきり意思表示できるようになってほしいと思う。 問題3 「言語や宗教、生活習慣など、民族間の文化的な違いが生む確執こそ、現代の地域紛争を生む最大の原因である」という意見があります。あなたはこの意見をどう思いますか。解答反対する 私はこの意見に反対である。 なぜなら、現代の地域紛争は単に宗教や言語の差異から起こるのではなく、主に経済?政治的理由から生じているからである。 例えばパレスチナ問題である。「パレスチナ人」という民族概念もユダヤ人国家イスラエル誕生で土地を追われ、難民となった人々の共通の運命をてこに形成されたのであり、

日语作文学习心得

日语作文学习心得 简谈日语入门课的学习感受 专业:服装121 班姓名孔语从语言学上来讲,日语和汉语都应该属于汉藏语系的,很多多少日语单词就是从汉语里来的, 被语言学家称为sino-japanese. 两者应该有着很大的相似之处。但我觉得,究竟上,要学好日语并不是一件容易的事,因为上边所述都是一些表层的东西。从深层次上来讲,两者有很大的不同之处。 一,课程基本情况 1 .课程名称:日语入门 2 .课程性质:公共选修课 3 .课时数量:2 4 学时 4 .使用教材:《标准日本语》初级上册外语与研究出版社 二,选课目的 学习并掌握日语入门基本知识,提高自身的文化素养。 三,本学期学习内容日语的五十音图的发音和基本写法,发音部分在五十音图的基础上学习元音和辅音,文字部分学习平假名和片假名的笔顺和由来,其次还学习了通过实例学习声调和语音,基本的语法知识和表达及词语讲解。 四,学习感受时间如奔腾的江水急速而又一去不复返,几周来的日语课已接近尾声,对课堂上的那种学习日语的激情却依依不舍。说实在的,现在日语作为一门小语种在中国很流行,许多学生学习日语的原因各有不同,有的为考研,有的为,有的为了将来能够找到高薪的工作,还有的只是个人

爱好等等。总之,我觉得比别人多掌握一门外语就是优势,无论将来做什么。 谈起我学日语的兴趣,可以说是从高三就开始了,记得当时一位同学家的姐姐在日本留学,高考前打国际长途为她加油。当时很羡慕她姐姐能出guo,我就想着我也要学习日语,将来有机会也去日本深造。慢慢地,我进入了大学,听老师说学计算机的学生可以学习日语,现在对日外包的软件项目很多, 了解一点日语肯定会有好处的。这更加点燃了我学习日语的激情。所以从那时刻起,我开始从网上查找、下载一些初级日语的教程来学习,开始“”的学习起日语的五十音图 来,日语的语音分为平假名和片假名,我就一遍一遍的听,一遍一遍的写, 但是当时临近期末考试复习, 所以对日语的初步学习也就搁置一旁。当了今年这学期,我留意到公选课里开设了初级日语,所以我就毫不犹豫的选了这门课。到了第四周开始《初级日语》这门课时,我记得当时我们的教室都爆满了, 同学们对学习日语的激情都很高涨,教我们日语的是我们学校安全学院的鲁老师,在他的带领下, 我们一遍一遍的大声朗读, 真的很有气氛。我记得最深的是他的一句话,他总是说他在学习日语时,外面的一切事物都与他无关,他的头脑里只有日语单词和他自己。老师的这种精神很值得我们每一个学生学习,我想无论学习什么东西, 如果达到了这样一种如痴如醉的忘我的境界,迟早都会开花结果的。 课后我也不断从网上学习一些句子来记忆日语单词,也朗读日语课文来掌握初级日语里的一些词汇及简单的语法。慢慢地,同学也被感染了,开始学习起日语来,我们就每天“”的那样打招呼,晚上“” 的那样问好,我

[青春励志优秀作文精选]日语优秀作文精选

竭诚为您提供优质的服务,优质的文档,谢谢阅读/双击去除 [青春励志优秀作文精选]日语优秀作文 精选 想要写好一篇足以收获好评的青春励志优秀作文并不 容易,那么青春励志优秀作文都有哪些呢?一起来看看吧。 青春励志优秀作文精选:我们的名字叫青春 我们的名字叫青春,如花般绚丽多姿,若梦般纯洁美好,又似春般生机盎然。我们蜕去满身稚气,步入花一般的季节,我们旋转着轻快的舞步,在成长的画卷上留下激情与愉悦,我们拿起涂满油彩的画笔,勾勒出梦的轨迹…… 我们如花,美丽地绽放,千姿百态,争奇斗艳。我们清

丽如莲花,出淤泥而不染,濯清涟而不妖,保持着自己的高洁;我们自信如葵花,盛开在娇阳下,始终高昂着头,尽情地向万物吐露自己的芬芳;我们高傲如梅花,在冰雪中独立寒枝,傲骨铮铮不屈于任何权势,永远保持自己的本色;我们娇艳如玫瑰,魅力四射,明媚到灿烂,灿烂到蝶舞蜂飞。是的,我们如花,随缘而开,不管艳阳高照,还是霪雨霏霏,我们都要全心展尽每一份风采,纵然凋零,纵然飘落,我们化作春泥,无怨无悔。 我们如梦,来也匆匆,去也匆匆,却装载着幻想、纯洁与美好,掺杂着兴奋与失落,欢笑与泪水,快乐与彷徨。假如青春没有梦想,就像蓝天没有白云,沧海没有帆影,高山没有飞瀑,田园没有牧歌;春天没有新绿,夏天没有蝉鸣,秋天没有红叶,冬天没有雪飘,世界将充满寂寞与苍凉。让我们插上梦的翅膀,任青春的思绪飞扬,人生的画卷由我们描绘,明天的太阳为我们而灿烂光芒! 我们如春,生气盎然,如拔节的笋竹,顽强地向上向上;我们如春,绿意盎然,如新生的嫩芽,饱含新生的希望。我们的气息布满世界的每一个角落,于是万物有了活力,大地

高考日语作文汇总

1、高考作文要求学生根据所给出的信息,用日语写一篇300~350字的短文。提供信息的形式有图画、图表、提纲、词组、短语、短文等。 启示: ①必须要认真阅读题目给出的信息(解说)。 日语作文一般会给出日文题目(有时也不给),之后都会给出有关这一话题的一段解说,这段解说可以引导学生较为全面认识这一话题,对于那些对该话题了解较少的学生,也可以起到扩展其背景知识的作用。而且一般来说这一段解说总会给出一些观点或倾向。因此,考生一定要认真阅读给出的这些信息,多读几遍,肯定会有助于您打开思路。 ②字数必须要符合要求。 这一点相信大家都强调过,也确实很重要。字数太多、太少都就是会扣分的,这样的失分确实很可惜。要求就是300~350字,教主认为要求学生写300字就可以了,除了日语写作能力很强、希望得高分的学生外,一般考生没必要写到350字,多写容易多出错。 2 《高考日语考试大纲》对高考作文的要求就是: (1)准确使用语法与词汇,书写、标点规范。 语言的准确性就是写作中不可忽视的一个重要方面,因为它直接或间接地影响到信息的准确传输。应用语法结构与词汇的准确程度就是写作部分评分表中的一项重要内容,书写与标点符号运用得正确与否也会在一定程度上影响考生的成绩。 (2)使用一定的句型、词汇,清楚、连贯地表达自己的思想。 任何一篇文章都需要有一个主题,考生应该围绕主题,借助一些句型、词组等的支持,清楚、连贯地表达自己的思想。 启示: ③准确性第一。 语言表达(词语、语法)的准确性必须要注意。高考评分标准对表达错误有明确的规定,而且在实际的阅卷过程中,与内容相比,语言表达的错误更容易受“关注”,减起分来也就是最“方便”最“容易”的。因此,考生一定要注意避免使用没有把握的表达,提高日语的正确性。在语言表达方面,与其选择“冒险”,不如选择“保险”。 ④需要有鲜明的观点。 议论文自不必说,就算就是其她文体,也需要有自己明确的瞧法,在表达上也需要清楚、连贯。高考阅卷时,每位阅卷老师的工作量非常大,很快就要瞧完一篇文章,也会出现疲劳的问题,因此,明确的观点可以让阅卷老师很快抓住您的作文的中心。而清晰的结构也会减少阅卷老师

日语作文。我的故乡

私には四人家族がいる。私が二番目で、兄が一人いる、家族は両親、兄と私だ。 お父さんは公務員だらか、毎日とても忙しい。彼は話の分かった人だ。お母さんは家庭主婦だ、お母さんは親しみやすい人だ。家の主婦として忙しく立ち働く。兄がホテルの経理を担当してので、社交的の人だ。私はわがままの娘だから、私のために、お父さんはどんなに心配したか分からない。だから、お父さんは一番好きだ。ご両親は家にいる時、私たち一緒に居間でテレビを見る、時々食べ物を作る、とても楽しいだ。私と兄が両親に幸せに後半生を過ごせるために一生懸命努力している。とにかく、家族は幸せだ。そして幸せをつづけている。 それは、私の家族だ。 私には四人家族がいる。私が二番目で、兄が一人いる、家族は両親、兄と私だ。 お父さんは公務員だらか、毎日とても忙しい。彼は話の分かった人だ。お母さんは家庭主婦だ、お母さんは親しみやすい人だ。家の主婦として忙しく立ち働く。兄がホテルの経理を担当してので、社交的の人だ。私はわがままの娘だから、私のために、お父さんはどんなに心配したか分からない。だから、お父さんは一番好きだ。ご両親は家にいる時、私たち一緒に居間でテレビを見る、時々食べ物を作る、とても楽しいだ。私と兄が両親に幸せに後半生を過ごせるために一生懸命努力している。とにかく、家族は幸せだ。そして幸せをつづけている。 それは、私の家族だ。 私には四人家族がいる。私が二番目で、兄が一人いる、家族は両親、兄と私だ。 お父さんは公務員だらか、毎日とても忙しい。彼は話の分かった人だ。お母さんは家庭主婦だ、お母さんは親しみやすい人だ。家の主婦として忙しく立ち働く。兄がホテルの経理を担当してので、社交的の人だ。私はわがままの娘だから、私のために、お父さんはどんなに心配したか分からない。だから、お父さんは一番好きだ。ご両親は家にいる時、私たち一緒に居間でテレビを見る、時々食べ物を作る、とても楽しいだ。私と兄が両親に幸せに後半生を過ごせるために一生懸命努力している。とにかく、家族は幸せだ。そして幸せをつづけている。 それは、私の家族だ。

日语作文范文

病気びょうき ラオ: 田中たなか さん。 田中たなか: はい、何なに ですか。 ラオ: 済すみませんが、薬くすり をください。 田中たなか : どうしましたか。 ラオ: 風邪かぜを 引ひ きました。 田中たなか: 熱ねつ が ありますか。 ラオ: ええ、少すこ し あります。 田中たなか: じゃ、病院びょういんへ 行い きましょう。 ラオ: お願ねが いします。 * 病気(びょうき) : ◎ 病 (名詞) * が: (接续助词,起委婉语气或转折作用) * 風邪を引く(かぜをひく) : 患感冒 * 熱(ねつ): ◎ (感冒发)烧 (名詞) * 少し: ② 一点点 (副詞) 電車に 乗る ラ オ: すみません、横浜まで いくらですか。 女の人: 300円です。 ラ オ: どうも。 .................................... ラ オ: あ、木村さん、どこへ 行きますか。 木 村: うちへ 帰ります。ラオさんは? ラ オ: 友達の うちへ 行きます。 この 電車は 横浜へ 行きますか。 木 村: いいえ、行きません。 三番線ですよ。 ラ オ: そうですか。ありがとう。 * 横浜(よこはま) ◎ * 木村(きむら) ◎ * 三番線(さんばんせん) ◎ : 三号站台

デパートで 李:ちょっとすみません。 店員A:はい。 李:かばん売り場はどこですか。 店員A:かばん売り場ですか。5階です。 李:どうも。 ........................................................................................ 店員B:いらっしゃいませ。 李:このかばんはいくらですか。 店員B:3500円です。 李:じゃ、これをください。 店員(てんいん)◎ スケジュール 加藤:日本語の勉強は何時からですか。 王:九時からです。 加藤:何時までですか。 王:12時までです。 加藤:そうですか。きょうの午後は何ですか。 王:先生の講義に出ます。 加藤:何時に終わりますか。 王:五時に終わります。 *加藤(かとう)① *スケジュール③:日程表 *講義(こうぎ)①:讲课 私の一日 きのうわたしは富士山へ行きました。富士山は日本でいちばん高い山です。3776m(メートル)です。わたしはいちばん上まで行きました。人がたいへん多かったです。天気が良かったですから、とてもきれいでした。でも、少し寒かったです。ちょっと疲れましたが、とても楽しかったです。 *から:表原因 *が:表转折 *疲れる(つかれる)③:疲劳、辛苦(自下一)

对日本的看法日文范文一篇关于对日本印象的日语作文

对日本的看法日文范文一篇关于对日本印象的日语作文わが目の日本 日本といえば、アニメ产业はまず头の中に浮かべました、 子供时代から、いろいろ日本制の动画を见ました、 仆の印象中の日本、绮丽で向上の国でした、 でも、すべて仆の妄想でした、日本は决してああいうのではありません、 仆は単纯すぎました、先周、仆と母二人で日本へ行きました、 绮丽だだけではありません、交差点をかけるとき、一人、一人とはしました。 わが国と比べれば、これは理想的国ではありませんか。 この国の性格も行为も、ただ向上でもありません、 世界で一番の积极な民族といいますでも言い过ぎません、

仆も日本を手元にして勉强します。 那个被强制弄成简单字了,上传的图是原文 下次还有什么,找我就是,多快好省给你写出来, 众所周知,日本和我国在历史上有很深的渊源,有这不可磨灭的仇恨,但是并不是所有日本人,所有日本的产物都是坏的,要抱着理智的心态去理解那些想要了解日本文化的人,在文化上(非不理智的)是没有国度的障碍和仇恨的。我们正要汲取日本好的方面用来提升自己,但也不能忘了自己是中国人! 换句话说,只要立场不变,也就是说自己还是骨子里的中华儿女,学哪国的文化都是不应该反对的(前提是正面的) 无论是日语,还是中文,它们都是以汉字为语言框架的,而且在这一框架之中,每一个字形的出现都是通过生动的图像而完成的,这里不仅传达了具体的意义,而且还为使用者提供一个直诉视觉的机会。对于把中文当作母语的人来说,当他的目光被日语中的假名所吸引,或者被那种淡化汉字以后所呈现的简单笔划所困惑的时候,日语假名似乎就不仅是一个语法上的存在,而是变成了为视觉

2016高考日语作文思路与范文

2016 高考日语作文思路 + 范文 如果有自由的时间 高中的学习非常忙碌,上课多,作业也多,所以时间非常不自由。 我非常想要自由的时间,因为有很多想要做的事情。 我想去日本旅游,特别是大阪。因为大阪有世界上最著名的樱花节。 樱花是白色的,有香味。每年樱花盛开的季节,许多日本人都会去看樱花。一定也有许多英俊的男孩和可爱的女孩吧。 此外,我也很喜欢日本的料理。日本有各种各样的料理,其实寿司最有人气。我喜欢吃日本寿司,但是,我非常讨厌日本的芥末。 平时每天都有很多作业,非常讨厌。如果有自由的时间,我喜欢在家看日本电影和动画片。 我最喜欢的动画片是名侦探柯南和海贼王。那些故事真的是非常有趣啊。路飞是我最喜欢的角色,路飞开心的时候,我也开心。路飞伤心的时候,我也是。 最后,我想和朋友们一起去运动场踢足球。虽然非常累,但是很高兴啊。有朋友在身边陪伴着自己,无论是输还是赢,都觉得很满足了。 如果有自由的时间,怎么样都是高兴的啊。

自由な時間があったら 高校の勉強はとても忙しく、授業も多く、宿題も多いので、時間がとても不自由です。自由な時間が欲しいです。やりたいことがたくさんありますから。 日本へ旅行に行きたいですが、特に大阪へ。大坂では、毎年世界一番有名な桜の祭がありますから。 桜は白くて、いい香りがあります。桜の咲く季節に、見に行く人が大勢です。その人々には、きっとかっこいい男の子も可愛い女の子もいましょう。 また、日本の料理が大好きです。日本には、様々食べ物がありますが、寿司は最高な人気があります。私は寿司が本当に好きですが、わさびなんか嫌いです。 毎日宿題がたくさんあって、大嫌いです。自由な時間があれば、家で日本映画やアニメを見るのが好きです。 私の一番好きなアニメは名探偵コナンと海賊王です。その物語が本当に面白いですね。ルフィが大好きですが、彼は嬉しい時、わたしはうれしいです。彼は悲しい時、私も悲しいです。 最後、友達と一緒に運動場でサッカーをしたいと思います。とても疲れますが、嬉しいです。友達がそばにいてくれて、勝っても負けても非常に満足です。 自由な時間があれば、どうしてもうれしいでしょうね。

日语作文。我的宿舍

ショッピグというと週末には友達と一緒に楽しく買い物することが思い浮かぶ。 私たちにとって日曜日から金曜日までずっと学校で勉強したり、食事したり、するのがもううんざりだった。一週間というものくだらない生活がつづけると頭も体も十分疲れた。どこかへ遊びたい。それで私たち毎日週末が来る日をむずむずと待っている。週末となるとだれもそんなうんざりの学校に留めりたくないだろうと思う。 普通土曜日となると友達とかクラスメートとかいろいろな人と市内までバスで行って日用品を買いたり、新しい服を買いたり、美味しい料理を食べたりするのが一番楽なことだ。身心をリラックスさせして元気が出った。 日曜日にはいつも寮や教室で勉強する。夜7時から9時まで授業があるので1日どこにも行きたくなかった。 ショッピグというと週末には友達と一緒に楽しく買い物することが思い浮かぶ。 私たちにとって日曜日から金曜日までずっと学校で勉強したり、食事したり、するのがもううんざりだった。一週間というものくだらない生活がつづけると頭も体も十分疲れた。どこかへ遊びたい。それで私たち毎日週末が来る日をむずむずと待っている。週末となるとだれもそんなうんざりの学校に留めりたくないだろうと思う。 普通土曜日となると友達とかクラスメートとかいろいろな人と市内までバスで行って日用品を買いたり、新しい服を買いたり、美味しい料理を食べたりするのが一番楽なことだ。身心をリラックスさせして元気が出った。 日曜日にはいつも寮や教室で勉強する。夜7時から9時まで授業があるので1日どこにも行きたくなかった。 ショッピグというと週末には友達と一緒に楽しく買い物することが思い浮かぶ。 私たちにとって日曜日から金曜日までずっと学校で勉強したり、食事したり、するのがもううんざりだった。一週間というものくだらない生活がつづけると頭も体も十分疲れた。どこかへ遊びたい。それで私たち毎日週末が来る日をむずむずと待っている。週末となるとだれもそんなうんざりの学校に留めりたくないだろうと思う。 普通土曜日となると友達とかクラスメートとかいろいろな人と市内までバスで行って日用品を買いたり、新しい服を買いたり、美味しい料理を食べたりするのが一番楽なことだ。身心をリラックスさせして元気が出った。 日曜日にはいつも寮や教室で勉強する。夜7時から9時まで授業があるので1日どこにも行きたくなかった。

考研日语203作文范例

問題1 あなたは、外国の人があなたの国の母語で語りかけてきたとき、文法や言葉遣いが間違っていたら直してあげますか。それとも失礼になると考えて言わないでおきますか。 解答直してあげる 私は間違っていたら直してあげる。 なぜなら、言葉の誤用に中には、相手の誤解を生んだり心を傷つけるような言い回しがあり、その不用意な一言のせいでゴミュコケーシュンに障害が生じるとしたら、本人にとっても不幸だと思うからだ。 例えば、日本語の「あなた」という言葉は目上の人に使うと失礼になるが、欧米の人たちは誰彼の区別なく「あなた」を使う。それが初心者ならまだ許せるが、ぺらぺらしゃべる外国の人に「あなた」と言われたら、日本人は間違いなくむかっとするだろう。それは母語と関係しているのであり、何の悪意もないのだが、言われた日本人はいい気持ちがしない。こうした誤用は誰かが指摘してあげなければ、いつまでも直らない。 従って、異なる言語や文化を持った者同士のゴミュコケーシュンが大切な時代には、自分が間違っていたら指摘してもらうし、相手が間違っていたら指摘してあげるといった率直さが美徳となると思う。 問題2 ある外国の人は「日本人は『はい/いいえ』がはっきりしないから、理解しにくい。日本人はもっとはっきり意思表示をするべきだ」と言います、あなたはこの意見に賛成ですか、反対ですか。 解答賛成する 私はこの意見に賛成である。 確かに日本人は「はい/いいえ」をはっきり言わない傾向がある。それは相手の気持ちを傷つけまいとする「和」の文化と言われるものだろうが、私たち外国人には賛成なのか反対なのか、好きなのか嫌いなのか、とても判断しにくい。 例えば、以心伝心とか、言葉を使わずに察しあう習慣は、日本社会のような同質性の高い同一民族社会では可能かもしれないが、私の国中国のように文化が異なり、言語が異なる多民族が暮らす社会ではほとんど不可能だと思う。きちんと意思表示しなければ、コミュニケーションが成立しないのである。今の日本も国際化が進んでおり、多くの外国人が住み、異文化間の交流が日常化している。そんな国際化時代には、はっきりとした意思表示や自己主張ができなければ、他人からも認めてもらえなくなるのではないか。 従って、私は日本人にはもっとはっきり意思表示できるようになってほしいと思う。 問題3 日本には昔からクジラの肉を食べる習慣がありますが、現在は食用としての商業捕鯨は全て禁止されています。あなたはこの商業捕鯨の一律禁止についてどう考えますか。 解答賛成する 私は商業捕鯨の一律禁止に賛成である。 なぜなら、クジラは繁殖力が低いので、捕りすぎると資源の回復が遅いからであり、また、クジラは経済的価値が高く、商業捕鯨を一旦認めると、乱獲されやすいからである。例えば、1946年に「国際捕鯨条約」が締結されたが、その後も乱獲が続き、クジラを絶滅の危機に追い込んだのは周知の事実である。捕鯨国代表は、カンガルーと同様に間引きが必要なまでに鯨が増えているとし、商業捕鯨の再開を主張しているが、鯨の生息数に

日语400字范文《我的兴趣兴趣》400字日语作文我的兴趣

日语400字范文《我的兴趣兴趣》400字日语作文我的兴趣那盛开的花朵儿,不正像一张张美丽可爱的脸儿吗? 开花时节,白的,紫的,粉的,水红的,姿色秀丽。 喇叭花的叶子碧绿碧绿的,稠密得很,远远看去,就像一匹绿布挂在空中。 啊,牵牛花开了。六角形的花,像个小酒杯,在阳光的照耀下显得更加显眼夺目。 微风过处,那碧绿的随风起伏,就像一位舞女在摆动她那美丽的长裙。 它那一片片椭圆形的叶子,一朵朵美丽的花儿,都在金色的阳光中点头含笑,好像在欢迎你。 鸡冠花,远远看去红得像一团火。走近一看,嗬,朵朵都像大公鸡头上的红冠子。 一列美人蕉,盛开着红色、黄色而带着黑斑的大朵的花,正伸张了大口,向着灿烂的春光微笑。

美人蕉就像含羞的小姑娘,捧出红艳艳的花朵。 美人蕉的花远看像一团团熊熊燃烧的火,近看像小姑娘头上的红蝴蝶结。 美人蕉那宽大的叶子,像一把绿色的芭蕉扇。 月季红艳艳的花儿在枝头首怒放,颜色是那么浓,那么纯,没有一点杂色,简直像一团燃烧的火焰。 经过我的精心照顾,美人蕉的长势越来越旺盛。过了不久,嘿!美人蕉的叶子渐渐地由绿带白,变成了浓绿,浓得几乎要流下来。美人蕉的顶端更增添了异彩,成串的花蕊像蜡烛,像火炬,越长越大,抿嘴欲笑。要开放了,要开放了…… 一天早晨,花终于盛开了,那鲜艳的花朵似红莲映水,红得耀眼。微风吹来,片片花瓣像是一只只美丽的蝴蝶翩翩起舞。那美呀,简直醉了我的心。 一阵风吹来,蜻蜓花摇了几下,那样子多迷人,真像一位穿花裙的姑娘在跳着优美的舞蹈。

那牵牛花儿爬在树上,调皮任性,无拘无束,就像小孙女缠着老爷爷。 牵牛花的果,像盏盏小灯,向下垂着,好像在寻找适宜的地方,然后把种子弹落,让它在繁茂的枝叶上荡漾着翡翠般的嫩绿。 一片片的叶儿一闪一闪,就像一张张少女的脸。 嫩叶上残留着一两滴雨露,泪珠一样晶莹。 学校的春天,那真是太美了!青的草,绿的叶,各色鲜艳的花,都像赶急似的聚拢起来,形成了光彩夺目的春天。 喇叭花的花冠美极了。它的花蕊有六根左右,很细,像大头针一样。它的花瓣像喇叭,它的顶端像五角星,下面是白色的,上面是紫色的,中间是粉红的,它像支架一样托着喇叭口。它的叶子绿绿的、薄薄的,形状跟桃心似的。它的茎是浅绿色的,弯弯曲曲,像电话线一样,緾绕在护栏上,骄傲的擎着花冠,微风吹来,它的花冠左右摇动,好像在吹喇叭似的。

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