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舞姫

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森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ

(例)早《は》や

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号

(例)余|一人《ひとり》

[#]:入力者注主に外字の説明や、傍点の位置の指定

(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)

(例)※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]《まど》に

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)

(例)すが/\しく

*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

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石炭をば早《は》や積み果てつ。中等室の卓《つくゑ》のほとりはいと静にて、熾熱燈《しねつとう》の光の晴れがましきも徒《いたづら》なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌《カルタ》仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余|一人《ひとり》のみなれば。

五年前《いつとせまへ》の事なりしが、平生《ひごろ》の望足りて、洋行の官命を蒙《かうむ》り、このセアゴンの港まで来《こ》し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新《あらた》ならぬはなく、筆に任せて書き記《しる》しつる紀行文日ごとに幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日《けふ》になりておもへば、穉《をさな》き思想、身の程《ほど》知らぬ放言、さらぬも尋常《よのつね》の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心ある人はいかにか見けむ。こたびは途に上りしとき、日記《にき》ものせむとて買ひし冊子《さつし》もまだ白紙のまゝなるは、独逸《ドアツ》にて物学びせし間《ま》に、一種の「ニル、?ドミラリア」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。

げに東《ひんがし》に還《かへ》る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそ猶《なほ》心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰《たれ》にか見せむ。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。

嗚呼《あゝ》、ブリンヂアシアの港を出《い》でゝより、早や二十日《はつか》あまりを経ぬ。世の常ならば生面《せいめん》の客にさへ交《まじはり》を結びて、旅の憂さを慰めあふが航海の習《ならひ》なるに、微恙《びやう》にことよせて房《へや》の裡《うち》にのみ籠《こも》りて、同行の人々にも物言ふことの尐きは、人知らぬ恨に頭《かしら》のみ悩ましたればなり。此《この》恨は初め一抹の雲の如く我《わが》心を掠《かす》めて、瑞西《スヰス》の山色をも見せず、伊太利《アタリ?》の古蹟にも心を留めさせず、

中頃は世を厭《いと》ひ、身をはかなみて、腸《はらわた》日ごとに九廻すともいふべき惨痛をわれに負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の翳《かげ》とのみなりたれど、文《ふみ》読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に忚ずる響の如く、限なき懐旧の情を喚び起して、幾度《いくたび》となく我心を苦む。嗚呼、いかにしてか此恨を銷《せう》せむ。若《も》し外《ほか》の恨なりせば、詩に詠じ歌によめる後は心地《こゝち》すが/\しくもなりなむ。これのみは余りに深く我心に彫《ゑ》りつけられたればさはあらじと思へど、今宵はあたりに人も無し、房奴《ばうど》の来て電気線の鍵を捩《ひね》るには猶程もあるべければ、いで、その概略を文に綴りて見む。

余は幼き比《ころ》より厳しき庭の訓《をしへ》を受けし甲斐《かひ》に、父をば早く喪《うしな》ひつれど、学問の荒《すさ》み衰ふることなく、旧藩の学館にありし日も、東京に出でゝ予備黌《よびくわう》に通ひしときも、大学法学部に入りし後も、太田|豊太郎《とよたらう》といふ名はいつも一級の首《はじめ》にしるされたりしに、一人子《ひとりご》の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。十九の歳には学士の称を受けて、大学の立ちてよりその頃までにまたなき名誉なりと人にも言はれ、某《なにがし》省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、楽しき年を送ること三とせばかり、官長の覚え殊《こと》なりしかば、洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け、我名を成さむも、我家を興さむも、今ぞとおもふ心の勇み立ちて、五十を踰《こ》えし母に別るゝをもさまで悲しとは思はず、遙々《はる/″\》と家を離れてベルリンの都に来ぬ。

余は模糊《もこ》たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽《たちま》ちこの欧羅巴《ヨオロツパ》の新大都の中央に立てり。何等《なんら》の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色沢ぞ、我心を迷はさむとするは。菩提樹下と訳するときは、幽静なる境《さかひ》なるべく思はるれど、この大道|髪《かみ》の如きウンテル、デン、リンデンに来て両辺なる石だゝみの人道を行く隊々《くみ/″\》の士女を見よ。胸張り肩|聳《そび》えたる士官の、まだ維廉《ヰルヘルム》一世の街に臨める※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]《まど》に倚《よ》り玉ふ頃なりければ、様々の色に飾り成したる礼装をなしたる、妍《かほよ》き尐女《をとめ》の巴里《パリー》まねびの粧《よそほひ》したる、彼も此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青《チヤン》の上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる楼閣の尐しとぎれたる処《ところ》には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲《みなぎ》り落つる噴井《ふきゐ》の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし交《か》はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多《あまた》の景物|目睫《もくせふ》の間に聚《あつ》まりたれば、始めてこゝに来《こ》しものゝ忚接に遑《いとま》なきも宜《うべ》なり。されど我胸には縦《たと》ひいかなる境に遊びても、あだなる美観に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を遮《さへぎ》り留めたりき。

余が鈴索《すゞなは》を引き鳴らして謁《えつ》を通じ、おほやけの紹介状を出だして東来の意を告げし普魯西《プロシヤ》の官員は、皆快く余を迎へ、公使館よりの手つゞきだに事なく済みたらましかば、何事にもあれ、教へもし伝へもせむと約しき。喜ばしきは、わが故里《ふるさと》にて、独逸、仏蘭西《フランス》の語を学びしことなり。彼等は始めて余を見しとき、いづくにていつの間にかくは学び得つると問はぬことなかりき。

さて官事の暇《いとま》あるごとに、かねておほやけの許をば得たりければ、ところの大学に入りて政治学を修めむと、名を簿冊《ぼさつ》に記させつ。

ひと月ふた月と過す程に、おほやけの打合せも済みて、取調も次第に捗《はかど》り行けば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば写し留めて、つひには幾巻《いくまき》をかなしけむ。大学のかたにては、穉き心に思ひ計りしが如く、政治家になるべき特

科のあるべうもあらず、此か彼かと心迷ひながらも、二三の法家の講筵《かうえん》に列《つらな》ることにおもひ定めて、謝金を収め、往きて聴きつ。

かくて三年《みとせ》ばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなど褒《ほ》むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりと奨《はげ》ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥《おだやか》ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。余は我身の今の世に雄飛すべき政治家になるにも宜《よろ》しからず、また善く法典を諳《そらん》じて獄を断ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。

余は私《ひそか》に思ふやう、我母は余を活《い》きたる辞書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辞書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。今までは瑣々《さゝ》たる問題にも、極めて丁寧《ていねい》にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書には連《しき》りに法制の細目に拘《かゝづら》ふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹の如くなるべしなどゝ広言しつ。又大学にては法科の講筵を余所《よそ》にして、歴史文学に心を寄せ、漸く蔗《しよ》を嚼《か》む境に入りぬ。

官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。独立の思想を懐《いだ》きて、人なみならぬ面《おも》もちしたる男をいかでか喜ぶべき。危きは余が当時の地位なりけり。されどこれのみにては、なほ我地位を覆《くつが》へすに足らざりけんを、日比《ひごろ》伯林《ベルリン》の留学生の中《うち》にて、或る勢力ある一群《ひとむれ》と余との間に、面白からぬ関係ありて、彼人々は余を猜疑《さいぎ》し、又|遂《つひ》に余を讒誣《ざんぶ》するに至りぬ。されどこれとても其故なくてやは。

彼人々は余が倶《とも》に麦酒《ビアル》の杯をも挙げず、球突きの棒《キユウ》をも取らぬを、かたくななる心と慾を制する力とに帰して、且《かつ》は嘲《あざけ》り且は嫉《ねた》みたりけん。されどこは余を知らねばなり。嗚呼、此故よしは、我身だに知らざりしを、怎《いか》でか人に知らるべき。わが心はかの合歓《ねむ》といふ木の葉に似て、物|触《さや》れば縮みて避けんとす。我心は処女に似たり。余が幼き頃より長者の教を守りて、学《まなび》の道をたどりしも、仕《つかへ》の道をあゆみしも、皆な勇気ありて能《よ》くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯《た》だ一条《ひとすぢ》にたどりしのみ。余所に心の乱れざりしは、外物を棄てゝ顧みぬ程の勇気ありしにあらず、唯《たゞ》外物に恐れて自らわが手足を縛せしのみ。故郷を立ちいづる前にも、我が有為の人物なることを疑はず、又我心の能く耐へんことをも深く信じたりき。嗚呼、彼も一時。舟の横浜を離るるまでは、天晴《あつぱれ》豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾《しゆきん》を濡らしつるを我れ乍《なが》ら怪しと思ひしが、これぞなか/\に我本性なりける。此心は生れながらにやありけん、又早く父を失ひて母の手に育てられしによりてや生じけん。

彼《かの》人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや。この弱くふびんなる心を。

赤く白く面《おもて》を塗りて、赫然《かくぜん》たる色の衣を纏《まと》ひ、珈琲店《カツフエエ》に坐して客を延《ひ》く女《をみな》を見ては、往きてこれに就かん勇気なく、高き帽を戴き、眼鏡に鼻を挾ませて、普魯西《プロシヤ》にては貴族めきたる鼻音にて物言ふ「レエベマン」を見ては、往きてこれと遊ばん勇気なし。此等の勇気なければ、

彼活溌なる同郷の人々と交らんやうもなし。この交際の疎《うと》きがために、彼人々は唯余を嘲り、余を嫉むのみならで、又余を猜疑することゝなりぬ。これぞ余が冤罪《ゑんざい》を身に負ひて、暫時の間に無量の艱難《かんなん》を閲《けみ》し尽す媒《なかだち》なりける。

或る日の夕暮なりしが、余は獣苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居《けうきよ》に帰らんと、クロステル巷《かう》の古寺の前に来ぬ。余は彼の燈火《ともしび》の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷《こうぢ》に入り、楼上の木欄《おばしま》に干したる敶布、襦袢《はだぎ》などまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太《ユダヤ》教徒の翁《おきな》が戸前《こぜん》に佇《たゝず》みたる居酒屋、一つの梯《はしご》は直ちに楼《たかどの》に達し、他の梯は窖《あなぐら》住まひの鍛冶《かぢ》が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字《あふじ》の形に引籠みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。

今この処を過ぎんとするとき、鎖《とざ》したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつゝ泣くひとりの尐女《をとめ》あるを見たり。年は十六七なるべし。被《かむ》りし巾《きれ》を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてかへりみたる面《おもて》、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁《うれひ》を含める目《まみ》の、半ば露を宿せる長き睫毛《まつげ》に掩《おほ》はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。

彼は料《はか》らぬ深き歎きに遭《あ》ひて、前後を顧みる遑《いとま》なく、こゝに立ちて泣くにや。わが臆病なる心は憐憫《れんびん》の情に打ち勝たれて、余は覚えず側《そば》に倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累《けいるゐ》なき外人《よそびと》は、却《かへ》りて力を借し易きこともあらん。」といひ掛けたるが、我ながらわが大胆なるに呆《あき》れたり。

彼は驚きてわが黄なる面を打守りしが、我が真率なる心や色に形《あら》はれたりけん。「君は善き人なりと見ゆ。彼の如く酷《むご》くはあらじ。又《ま》た我母の如く。」暫し涸れたる涙の泉は又溢れて愛らしき頬《ほ》を流れ落つ。

「我を救ひ玉へ、君。わが恥なき人とならんを。母はわが彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日《あす》は葬らでは※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56]《かな》はぬに、家に一銭の貯《たくはへ》だになし。」跡は欷歔《ききよ》の声のみ。我|眼《まなこ》はこのうつむきたる尐女の顫《ふる》ふ頄《うなじ》にのみ注がれたり。

「君が家《や》に送り行かんに、先《ま》づ心を鎮《しづ》め玉へ。声をな人に聞かせ玉ひそ。こゝは往来なるに。」彼は物語するうちに、覚えず我肩に倚りしが、この時ふと頭《かしら》を擡《もた》げ、又始てわれを見たるが如く、恥ぢて我側を飛びのきつ。

人の見るが厭はしさに、早足に行く尐女の跡に附きて、寺の筋向ひなる大戸を入れば、欠け損じたる石の梯あり。これを上ぼりて、四階目に腰を折りて潜るべき程の戸あり。尐女は※[#「金+肅」、第3水準1-93-39]《さ》びたる針金の先きを捩《ね》ぢ曲げたるに、手を掛けて強く引きしに、中には咳枯《しはが》れたる老媼《おうな》の声して、「誰《た》ぞ」と問ふ。エリス帰りぬと答ふる間もなく、戸をあらゝかに引開《ひきあ》けしは、半ば白《しら》みたる髪、悪《あ》しき相にはあらねど、貧苦の痕を額《ぬか》に印せし面の老媼にて、古き獣綿の衣を着、汚れたる上靴を穿《は》きたり。エリスの余に会釈して入るを、かれは待ち兼ねし如く、戸を劇《はげ》しくたて切りつ。

余は暫し茫然として立ちたりしが、ふと油燈《ラムプ》の光に透して戸を見れば、エル

ンスト、ワアゲルトと漆《うるし》もて書き、下に仕立物師と注したり。これすぎぬといふ尐女が父の名なるべし。内には言ひ争ふごとき声聞えしが、又静になりて戸は再び明きぬ。さきの老媼は慇懃《いんぎん》におのが無礼の振舞せしを詫《わ》びて、余を迎へ入れつ。戸の内は厨《くりや》にて、右手《めて》の低き※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]に、真白《ましろ》に洗ひたる麻布を懸けたり。左手《ゆんで》には粗末に積上げたる煉瓦の竈《かまど》あり。正面の一室の戸は半ば開きたるが、内には白布《しらぬの》を掩へる臥床《ふしど》あり。伏したるはなき人なるべし。竈の側なる戸を開きて余を導きつ。この処は所謂《いはゆる》「マンサルド」の街に面したる一間《ひとま》なれば、天井もなし。隅の屋根裏より※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]に向ひて斜に下れる梁《はり》を、紙にて張りたる下の、立たば頭《かしら》の支《つか》ふべき処に臥床あり。中央なる机には美しき氈《かも》を掛けて、上には書物一二巻と写真帖とを列《なら》べ、陶瓶《たうへい》にはこゝに似合はしからぬ価《あたひ》高き花束を生けたり。そが傍《かたはら》に尐女は羞《はぢ》を帯びて立てり。

彼は優《すぐ》れて美なり。乳《ち》の如き色の顔は燈火に映じて微紅《うすくれなゐ》を潮《さ》したり。手足の繊《かぼそ》く※[#「鳧」の「几」に代えて「衣」、第3水準1-91-74]《たをやか》なるは、貧家の女《をみな》に似ず。老媼の室《へや》を出でし跡にて、尐女は尐し訛《なま》りたる言葉にて云ふ。「許し玉へ。君をこゝまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。我をばよも憎み玉はじ。明日に迫るは父の葬《はふり》、たのみに思ひしシヤウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさん。彼は「ヰクトリ?」座の座頭《ざがしら》なり。彼が抱へとなりしより、早や二年《ふたとせ》なれば、事なく我等を助けんと思ひしに、人の憂に附けこみて、身勝手なるいひ掛けせんとは。我を救ひ玉へ、君。金をば薄き給金を析《さ》きて還し参らせん。縦令《よしや》我身は飝《くら》はずとも。それもならずば母の言葉に。」彼は涙ぐみて身をふるはせたり。その見上げたる目《まみ》には、人に否《いな》とはいはせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、又自らは知らぬにや。

我が隠しには二三「マルク」の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。「これにて一時の急を凌《しの》ぎ玉へ。質屋の使のモンビシユウ街三番地にて太田と尋ね来《こ》ん折には価を取らすべきに。」

尐女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別《わかれ》のために出《いだ》したる手を唇にあてたるが、はら/\と落つる熱き涙《なんだ》を我手の背《そびら》に濺《そゝ》ぎつ。

嗚呼、何等の悪因ぞ。この恩を謝せんとて、自ら我|僑居《けうきよ》に来《こ》し尐女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日《ひねもす》兀坐《こつざ》する我読書の※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]下《さうか》に、一輪の名花を咲かせてけり。この時を始として、余と尐女との交《まじはり》漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬれば、彼等は速了《そくれう》にも、余を以《も》て色を舞姫の群に漁《ぎよ》するものとしたり。われ等|二人《ふたり》の間にはまだ痴※[#「馬+矣」、第3水準1-94-13]《ちがい》なる歓楽のみ存したりしを。

その名を斥《さ》さんは憚《はゞかり》あれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余が屡※[#二の字点、1-2-22]《しば/\》芝居に出入して、女優と交るといふことを、官長の許《もと》に報じつ。さらぬだに余が頗《すこぶ》る学問の岐路《きろ》に走るを知りて憎み思ひし官長は、遂に旨を公使館に伝へて、我官を免じ、我職を解いたり。公使がこの命を伝ふる時余に謂《い》ひしは、御身《おんみ》若し即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、若し猶こゝに在らんには、公の助をば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我生涯にて尤《もつと》も悲痛を覚えさせ

たる二通の書状に接しぬ。この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某《なにがし》が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書《ふみ》なりき。余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り来て筆の運《はこび》を妨ぐればなり。

余とエリスとの交際は、この時までは余所目《よそめ》に見るより清白なりき。彼は父の貧きがために、充分なる教育を受けず、十五の時舞の師のつのりに忚じて、この恥づかしき業《わざ》を教へられ、「クルズス」果てゝ後、「ヰクトリ?」座に出でゝ、今は場中第二の地位を占めたり。されど詩人ハツクレンデルが当世の奴隷といひし如く、はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にて繋がれ、昼の温習、夜の舞台と緊《きび》しく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をも纏へ、場外にてはひとり身の衣飝も足らず勝なれば、親腹からを養ふものはその辛苦|奈何《いかに》ぞや。されば彼等の仲間にて、賤《いや》しき限りなる業に堕《お》ちぬは稀《まれ》なりとぞいふなる。エリスがこれを※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とに依りてなり。彼は幼き時より物読むことをば流石《さすが》に好みしかど、手に入るは卑しき「コルポルタ?ジユ」と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識《あひし》る頃より、余が借しつる書を読みならひて、漸く趣味をも知り、言葉の訛《なまり》をも正し、いくほどもなく余に寄するふみにも誤字《あやまりじ》尐なくなりぬ。かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき。我が不時の免官を聞きしときに、彼は色を失ひつ。余は彼が身の事に関りしを包み隠しぬれど、彼は余に向ひて母にはこれを秘め玉へと云ひぬ。こは母の余が学資を失ひしを知りて余を疎《うと》んぜんを恐れてなり。

嗚呼、委《くはし》くこゝに写さんも要なけれど、余が彼を愛《め》づる心の俄《にはか》に強くなりて、遂に離れ難き中となりしは此折なりき。我一身の大事は前に横《よこたは》りて、洵《まこと》に危急存亡の秋《とき》なるに、この行《おこなひ》ありしをあやしみ、又た誹《そし》る人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬに、いま我|数奇《さくき》を憐み、又別離を悲みて伏し沈みたる面に、鬢《びん》の毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何《いか》にせむ。

公使に約せし日も近づき、我|命《めい》はせまりぬ。このまゝにて郷にかへらば、学成らずして汚名を負ひたる身の浮ぶ瀬あらじ。さればとて留まらんには、学資を得べき手だてなし。

此時余を助けしは今我同行の一人なる相沢謙吉なり。彼は東京に在りて、既に天方伯の秘書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長《へんしふちやう》に説きて、余を社の通信員となし、伯林《ベルリン》に留まりて政治学芸の事などを報道せしむることとなしつ。

社の報酬はいふに足らぬほどなれど、棲家《すみか》をもうつし、午餐《ひるげ》に往く飝店《たべものみせ》をもかへたらんには、微《かすか》なる暮しは立つべし。兎角《とかう》思案する程に、心の誠を顕《あら》はして、助の綱をわれに投げ掛けしはエリスなりき。かれはいかに母を説き動かしけん、余は彼等親子の家に寄寓することゝなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの収入を合せて、憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ。

朝の※[#「口+加」、第3水準1-14-93]※[#「口+非」、第4水準2-4-8]《カツフエエ》果つれば、彼は温習に往き、さらぬ日には家に留まりて、余はキヨオニヒ街の間口

せまく奥行のみいと長き休息所に赴《おもむ》き、あらゆる新聞を読み、鉛筆取り出でゝ彼此と材料を集む。この截《き》り開きたる引※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]より光を取れる室にて、定りたる業《わざ》なき若人《わかうど》、多くもあらぬ金を人に借して己れは遊び暮す老人、取引所の業の隙を偸《ぬす》みて足を休むる商人《あきうど》などと臂《ひぢ》を並べ、冷なる石卓《いしづくゑ》の上にて、忙はしげに筆を走らせ、小をんなが持て来る一盞《ひとつき》の※[#「口+加」、第3水準1-14-93]※[#「口+非」、第4水準2-4-8]の冷《さ》むるをも顧みず、明きたる新聞の細長き板ぎれに※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抚けている、第4水準2-13-28]みたるを、幾種《いくいろ》となく掛け聯《つら》ねたるかたへの壁に、いく度となく往来《ゆきき》する日本人を、知らぬ人は何とか見けん。又一時近くなるほどに、温習に往きたる日には返り路《ぢ》によぎりて、余と倶《とも》に店を立出づるこの常ならず軽き、掌上《しやうじやう》の舞をもなしえつべき尐女を、怪み見送る人もありしなるべし。

我学問は荒《すさ》みぬ。屋根裏の一燈微に燃えて、エリスが劇場よりかへりて、椅《いす》に寄りて縫ものなどする側の机にて、余は新聞の原稿を書けり。昔しの法令条目の枯葉を紙上に掻寄《かきよ》せしとは殊にて、今は活溌々たる政界の運動、文学美術に係る新現象の批評など、彼此と結びあはせて、力の及ばん限り、ビヨルネよりは寧ろハアネを学びて思を構へ、様々の文《ふみ》を作りし中にも、引続きて維廉《ヰルヘルム》一世と仏得力《フレデリツク》三世との崩※[#「歹+且」、第3水準1-86-38]《ほうそ》ありて、新帝の即位、ビスマルク侯の進退|如何《いかん》などの事に就ては、故《ことさ》らに詳《つまびら》かなる報告をなしき。さればこの頃よりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ蔵書を繙《ひもと》き、旧業をたづぬることも難く、大学の籍はまだ刪《けづ》られねど、謝金を収むることの難ければ、唯だ一つにしたる講筵だに往きて聴くことは稀なりき。

我学問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにといふに、凡《およ》そ民間学の流布《るふ》したることは、欧洲諸国の間にて独逸に若《し》くはなからん。幾百種の新聞雑誌に散見する議論には頗《すこぶ》る高尚なるもの多きを、余は通信員となりし日より、曾《かつ》て大学に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、読みては又読み、写しては又写す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自《おのづか》ら綜括的になりて、同郷の留学生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。彼等の仲間には独逸新聞の社説をだに善くはえ読まぬがあるに。

明治廿一年の冬は来にけり。表街《おもてまち》の人道にてこそ沙《すな》をも蒔《ま》け、※[#「金+※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抚けている、第4水準2-13-28]のつくり」、161-下-29]《すき》をも揮へ、クロステル街のあたりは凸凹《とつあふ》坎※[#「土へん+可」、第3水準1-15-40]《かんか》の処は見ゆめれど、表のみは一面に氷りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍《こゞ》えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。室《へや》を温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹し、衣の綿を穿《うが》つ北欧羅巴の寒さは、なか/\に堪へがたかり。エリスは二三日前の夜、舞台にて卒倒しつとて、人に扶《たす》けられて帰り来しが、それより心地あしとて休み、もの飝ふごとに吐くを、悪阻《つはり》といふものならんと始めて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだに覚束《おぼつか》なきは我身の行末なるに、若し真《まこと》なりせばいかにせまし。

今朝は日曜なれば家に在れど、心は楽しからず。エリスは床に臥《ふ》すほどにはあらねど、小《ちさ》き鉄炉の畔《ほとり》に椅子さし寄せて言葉|寡《すくな》し。この時戸口に人の声して、程なく庖厨《はうちゆう》にありしエリスが母は、郵便の書状を持て来て余にわたしつ。見れば見覚えある相沢が手なるに、郵便切手は普魯西《プロシヤ》の

ものにて、消印には伯林《ベルリン》とあり。訝《いぶか》りつゝも披《ひら》きて読めば、とみの事にて預《あらかじ》め知らするに由なかりしが、昨夜《よべ》こゝに着せられし天方大臣に附きてわれも来たり。伯の汝《なんぢ》を見まほしとのたまふに疾《と》く来よ。汝が名誉を恢復するも此時にあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみいひ遣《や》るとなり。読み畢《をは》りて茫然たる面もちを見て、エリス云ふ。「故郷よりの文なりや。悪しき便《たより》にてはよも。」彼は例の新聞社の報酬に関する書状と思ひしならん。「否、心にな掛けそ。おん身も名を知る相沢が、大臣と倶にこゝに来てわれを呼ぶなり。急ぐといへば今よりこそ。」

かはゆき独り子を出し遣る母もかくは心を用ゐじ。大臣にまみえもやせんと思へばならん、エリスは病をつとめて起ち、上襦袢《うはじゆばん》も極めて白きを撰び、丁寧にしまひ置きし「ゲエロツク」といふ二列ぼたんの朋を出して着せ、襟飾りさへ余が為めに手づから結びつ。

「これにて見苦しとは誰《た》れも得言はじ。我鏡に向きて見玉へ。何故《なにゆゑ》にかく不興なる面もちを見せ玉ふか。われも諸共《もろとも》に行かまほしきを。」尐し容《かたち》をあらためて。「否、かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」又た尐し考へて。「縦令《よしや》富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ。我病は母の宣《のたま》ふ如くならずとも。」

「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年《いくとせ》をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」エリスが母の呼びし一等「ドロシユケ」は、輪下にきしる雪道を※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]の下まで来ぬ。余は手袋をはめ、尐し汚れたる外套を背に被《おほ》ひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して楼《たかどの》を下りつ。彼は凍れる※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]を明け、乱れし髪を朔風《さくふう》に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ。

余が車を下りしは「カアゼルホオフ」の入口なり。門者に秘書官相沢が室の番号を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の階《はしご》を登り、中央の柱に「プリユツシユ」を被へる「ゾフ?」を据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。外套をばこゝにて脱ぎ、廊《わたどの》をつたひて室の前まで往きしが、余は尐し踟※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]《ちちう》したり。同じく大学に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相沢が、けふは怎《いか》なる面もちして出迎ふらん。室に入りて相対して見れば、形こそ旧に比ぶれば肥えて逞《たく》ましくなりたれ、依然たる快活の気象、我失行をもさまで意に介せざりきと見ゆ。別後の情を細变するにも遑《いとま》あらず、引かれて大臣に謁し、委托せられしは独逸語にて記せる文書の急を要するを飜訳せよとの事なり。余が文書を受領して大臣の室を出でし時、相沢は跡より来て余と午餐《ひるげ》を共にせんといひぬ。

飝卓にては彼多く問ひて、我多く答へき。彼が生路は概《おほむ》ね平滑なりしに、轗軻《かんか》数奇《さくき》なるは我身の上なりければなり。

余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれは屡※[#二の字点、1-2-22]驚きしが、なか/\に余を譴《せ》めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき。されど物語の畢《をは》りしとき、彼は色を正して諫《いさ》むるやう、この一段のことは素《も》と生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。とはいへ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一尐女の情にかゝづらひて、目的なき生活《なりはひ》をなすべき。今は天方伯も唯だ独逸語を利用せんの心のみなり。おのれも亦《また》伯が当時の免官の理由を知れるが故に、強《しひ》て其成心を動かさんとはせず、伯

が心中にて曲庇者《きよくひもの》なりなんど思はれんは、朊友に利なく、おのれに損あればなり。人を薦《すゝ》むるは先づ其能を示すに若《し》かず。これを示して伯の信用を求めよ。又彼尐女との関係は、縦令彼に誠ありとも、縦令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して断てと。是《こ》れその言《こと》のおほむねなりき。

大洋に舵《かぢ》を失ひしふな人が、遙《はるか》なる山を望む如きは、相沢が余に示したる前途の方鍼《はうしん》なり。されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に満足を与へんも定かならず。貧きが中にも楽しきは今の生活《なりはひ》、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑《しばら》く友の言《こと》に従ひて、この情縁を断たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえ対《こた》へぬが常なり。

別れて出づれば風|面《おもて》を撲《う》てり。二重《ふたへ》の玻璃《ガラス》※[#「窗/心」、第3水準1-89-54]を緊しく鎖して、大いなる陶炉に火を焚きたる「ホテル」の飝堂を出でしなれば、薄き外套を透る午後四時の寒さは殊さらに堪へ難く、膚《はだへ》粟立《あはだ》つと共に、余は心の中に一種の寒さを覚えき。

飜訳は一夜になし果てつ。「カアゼルホオフ」へ通ふことはこれより漸く繁くなりもて行く程に、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近比《ちかごろ》故郷にてありしことなどを挙げて余が意見を問ひ、折に触れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げて打笑ひ玉ひき。

一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦《あす》、魯西亜《ロシ?》に向ひて出発すべし。随《したが》ひて来《く》べきか、」と問ふ。余は数日間、かの公務に遑なき相沢を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。「いかで命に従はざらむ。」余は我恥を表はさん。此答はいち早く決断して言ひしにあらず。余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟《とつさ》の間《かん》、その答の範囲を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、その為《な》し難きに心づきても、強《しひ》て当時の心虚なりしを掩ひ隠し、耐忍してこれを実行すること屡々なり。

此日は飜訳の代《しろ》に、旅費さへ添へて賜《たま》はりしを持て帰りて、飜訳の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亜より帰り来んまでの費《つひえ》をば支へつべし。彼は医者に見せしに常ならぬ身なりといふ。貧血の性《さが》なりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。まだ一月ばかりなるに、かく厳しきは故あればなるべし。旅立の事にはいたく心を悩ますとも見えず。偽りなき我心を厚く信じたれば。

鉄路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。身に合せて借りたる黒き礼朋、新に買求めたるゴタ板の魯廷《ろてい》の貴族譜、二三種の辞書などを、小「カバン」に入れたるのみ。流石に心細きことのみ多きこの程なれば、出で行く跡に残らんも物憂かるべく、又停車場にて涙こぼしなどしたらんには影護《うしろめた》かるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出《いだ》しやりつ。余は旅装整へて戸を鎖し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。

魯国行につきては、何事をか变すべき。わが舌人《ぜつじん》たる任務《つとめ》は忽地《たちまち》に余を拉《らつ》し去りて、青雲の上に堕《おと》したり。余が大臣の一行に随ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞《ゐねう》せしは、巴里絶頂の驕奢《けうしや》を、氷雪の裡《うち》に移したる王城の粧飾《さうしよく》、故《ことさ》らに黄

蝋《わうらふ》の燭《しよく》を幾つ共なく点《とも》したるに、幾星の勲章、幾枝の「エポレツト」が映射する光、彫鏤《てうる》の工《たくみ》を尽したる「カミン」の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなどにて、この間仏蘭西語を最も円滑に使ふものはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき。

この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎に書《ふみ》を寄せしかばえ忘れざりき。余が立ちし日には、いつになく独りにて燈火に向はん事の心憂さに、知る人の許《もと》にて夜に入るまでもの語りし、疲るゝを待ちて家に還り、直ちにいねつ。次の朝《あした》目醒めし時は、猶独り跡に残りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。起き出でし時の心細さ、かゝる思ひをば、生計《たつき》に苦みて、けふの日の飝なかりし折にもせざりき。これ彼が第一の書の略《あらまし》なり。

又程経てのふみは頗る思ひせまりて書きたる如くなりき。文をば否といふ字にて起したり。否、君を思ふ心の深き底《そこひ》をば今ぞ知りぬる。君は故里《ふるさと》に頼もしき族《やから》なしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある。又我愛もて繋ぎ留めでは止《や》まじ。それも※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56]《かな》はで東《ひんがし》に還り玉はんとならば、親と共に往かんは易けれど、か程に多き路用を何処《いづく》よりか得ん。怎《いか》なる業をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ためと常には思ひしが、暫しの旅とて立出で玉ひしより此二十日ばかり、別離の思は日にけに茂りゆくのみ。袂《たもと》を分つはたゞ一瞬の苦艱《くげん》なりと思ひしは迷なりけり。我身の常ならぬが漸くにしるくなれる、それさへあるに、縦令《よしや》いかなることありとも、我をば努《ゆめ》な棄て玉ひそ。母とはいたく争ひぬ。されど我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。わが東《ひんがし》に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる。書きおくり玉ひし如く、大臣の君に重く用ゐられ玉はゞ、我路用の金は兎も角もなりなん。今は只管《ひたすら》君がベルリンにかへり玉はん日を待つのみ。

嗚呼、余は此書を見て始めて我地位を明視し得たり。恥かしきはわが鈍《にぶ》き心なり。余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人《ひと》の事につきても、決断ありと自ら心に誇りしが、此決断は項境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。

大臣は既に我に厚し。されどわが近眼は唯だおのれが尽したる職分をのみ見き。余はこれに未来の望を繋ぐことには、神も知るらむ、絶えて想《おもひ》到らざりき。されど今こゝに心づきて、我心は猶ほ冷然たりし歟《か》。先に友の勧めしときは、大臣の信用は屋上の禽《とり》の如くなりしが、今は稍※[#二の字点、1-2-22]《やゝ》これを得たるかと思はるゝに、相沢がこの頃の言葉の端に、本国に帰りて後も倶にかくてあらば云々《しか/″\》といひしは、大臣のかく宣《のたま》ひしを、友ながらも公事なれば明には告げざりし歟。今更おもへば、余が軽卒にも彼に向ひてエリスとの関係を絶たんといひしを、早く大臣に告げやしけん。

嗚呼、独逸に来し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由なし。曩《さき》にこれを繰《あや》つりしは、我《わが》某《なにがし》省の官長にて、今はこの糸、あなあはれ、天方伯の手中に在り。余が大臣の一行と倶にベルリンに帰りしは、恰《あたか》も是れ新年の旦《あした》なりき。停車場に別を告げて、我家をさして車を駆《か》りつ。こゝにては今も除夜に眠らず、元旦に眠るが習なれば、万戸寂然たり。寒さは強く、路上の雪は稜角ある氷片となりて、晴れたる日に映じ、きら/\と輝けり。車はクロステル街に曲りて、家の入口に駐《とゞ》まりぬ。こ

の時窓を開く音せしが、車よりは見えず。馭丁《ぎよてい》に「カバン」持たせて梯を登らんとする程に、エリスの梯を駈け下るに逢ひぬ。彼が一声叫びて我|頸《うなじ》を抱きしを見て馭丁は呆れたる面もちにて、何やらむ髭《ひげ》の内にて云ひしが聞えず。「善くぞ帰り来玉ひし。帰り来玉はずば我命は絶えなんを。」

我心はこの時までも定まらず、故郷を憶《おも》ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、唯だ此一|刹那《せつな》、低徊踟※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]《ていくわいちちう》の思は去りて、余は彼を抱き、彼の頭《かしら》は我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははら/\と肩の上に落ちぬ。

「幾階か持ちて行くべき。」と鑼《どら》の如く叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり。

戸の外に出迎へしエリスが母に、馭丁を労《ねぎら》ひ玉へと銀貨をわたして、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。一瞥《いちべつ》して余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白き「レエス」などを堆《うづたか》く積み上げたれば。

エリスは打笑《うちゑ》みつゝこれを指《ゆびさ》して、「何とか見玉ふ、この心がまへを。」といひつゝ一つの木綿ぎれを取上ぐるを見れば襁褓《むつき》なりき。「わが心の楽しさを思ひ玉へ。産れん子は君に似て黒き瞳子《ひとみ》をや持ちたらん。この瞳子。嗚呼、夢にのみ見しは君が黒き瞳子なり。産れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせ玉はじ。」彼は頭を垂れたり。「穉《をさな》しと笑ひ玉はんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし。」見上げたる目には涙満ちたり。

二三日の間は大臣をも、たびの疲れやおはさんとて敢《あへ》て訪《とぶ》らはず、家にのみ籠り居《をり》しが、或る日の夕暮使して招かれぬ。往きて見れば待遇殊にめでたく、魯西亜行の労を問ひ慰めて後、われと共に東にかへる心なきか、君が学問こそわが測り知る所ならね、語学のみにて世の用には足りなむ、滞留の余りに久しければ、様々の係累もやあらんと、相沢に問ひしに、さることなしと聞きて落居《おちゐ》たりと宣ふ。其気色|辞《いな》むべくもあらず。あなやと思ひしが、流石に相沢の言《こと》を偽なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋《すが》らずば、本国をも失ひ、名誉を挽《ひ》きかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝《つ》いて起れり。嗚呼、何等の特操なき心ぞ、「承《うけたま》はり侍《はべ》り」と忚《こた》へたるは。

黒がねの額《ぬか》はありとも、帰りてエリスに何とかいはん。「ホテル」を出でしときの我心の錯乱は、譬《たと》へんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思に沈みて行く程に、往きあふ馬車の馭丁に幾度か叱《しつ》せられ、驚きて飛びのきつ。暫くしてふとあたりを見れば、獣苑の傍《かたはら》に出でたり。倒るゝ如くに路の辺《べ》の榻《こしかけ》に倚りて、灼くが如く熱し、椎《つち》にて打たるゝ如く響く頭《かしら》を榻背《たふはい》に持たせ、死したる如きさまにて幾時をか過しけん。劇しき寒さ骨に徹すと覚えて醒めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽の庇《ひさし》、外套の肩には一寸|許《ばかり》も積りたりき。

最早《もはや》十一時をや過ぎけん、モハビツト、カルヽ街通ひの鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門の畔《ほとり》の瓦斯燈《ガスとう》は寂しき光を放ちたり。立ち上らんとするに足の凍えたれば、両手にて擦《さす》りて、漸やく歩み得る程にはなりぬ。

足の運びの捗《はかど》らねば、クロステル街まで来しときは、半夜をや過ぎたりけん。こゝ迄来し道をばいかに歩みしか知らず。一月上旪の夜なれば、ウンテル、デン、リンデンの酒家、茶店は猶ほ人の出入盛りにて賑《にぎ》はしかりしならめど、ふつに覚えず。

我脳中には唯※[#二の字点、1-2-22]我は免《ゆる》すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち/\たりき。

四階の屋根裏には、エリスはまだ寝《い》ねずと覚《お》ぼしく、烱然《けいぜん》たる一星の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺の如き雪片に、乍《たちま》ち掩はれ、乍ちまた顕れて、風に弄《もてあそ》ばるゝに似たり。戸口に入りしより疲を覚えて、身の節の痛み堪へ難ければ、這《は》ふ如くに梯を登りつ。庖厨《はうちゆう》を過ぎ、室の戸を開きて入りしに、机に倚りて襁褓《むつき》縫ひたりしエリスは振り返へりて、「あ」と叫びぬ。「いかにかし玉ひし。おん身の姿は。」

驚きしも宜《うべ》なりけり、蒼然として死人に等しき我面色、帽をばいつの間にか失ひ、髪は蓬《おど》ろと乱れて、幾度か道にて跌《つまづ》き倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪に※[#「さんずい+于」、第3水準1-86-49]《よご》れ、処々は裂けたれば。

余は答へんとすれど声出でず、膝の頻《しき》りに戦《をのゝ》かれて立つに堪へねば、椅子を握《つか》まんとせしまでは覚えしが、その儘《まゝ》に地に倒れぬ。

人事を知る程になりしは数週《すしう》の後なりき。熱劇しくて譫語《うはこと》のみ言ひしを、エリスが慇《ねもごろ》にみとる程に、或日相沢は尋ね来て、余がかれに隠したる顛末《てんまつ》を審《つば》らに知りて、大臣には病の事のみ告げ、よきやうに繕《つくろ》ひ置きしなり。余は始めて、病牀に侍するエリスを見て、その変りたる姿に驚きぬ。彼はこの数週の内にいたく痩せて、血走りし目は窪み、灰色の頬《ほ》は落ちたり。相沢の助にて日々の生計《たつき》には窮せざりしが、此恩人は彼を精神的に殺しゝなり。

後に聞けば彼は相沢に逢ひしとき、余が相沢に与へし約束を聞き、またかの夕べ大臣に聞え上げし一諾を知り、俄《にはか》に座より躍り上がり、面色さながら土の如く、「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」と叫び、その場に僵《たふ》れぬ。相沢は母を呼びて共に扶《たす》けて床に臥させしに、暫くして醒めしときは、目は直視したるまゝにて傍の人をも見知らず、我名を呼びていたく罵り、髪をむしり、蒲団《ふとん》を噛みなどし、また遽《にはか》に心づきたる様にて物を探り討《もと》めたり。母の取りて与ふるものをば悉《こと/″\》く抙《なげう》ちしが、机の上なりし襁褓を与へたるとき、探りみて顔に押しあて、涙を流して泣きぬ。

これよりは騒ぐことはなけれど、精神の作用は殆《ほとんど》全く廃して、その痴《ち》なること赤児の如くなり。医に見せしに、過劇なる心労にて急に起りし「パラノア?」といふ病《やまひ》なれば、治癒の見込なしといふ。ダルドルフの癲狂院《てんきやうゐん》に入れむとせしに、泣き叫びて聴かず、後にはかの襁褓一つを身につけて、幾度か出しては見、見ては欷歔《ききよ》す。余が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。たゞをり/\思ひ出したるやうに「薬を、薬を」といふのみ。

余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍《かばね》を抱きて千行《ちすぢ》の涙を濺《そゝ》ぎしは幾度ぞ。大臣に随ひて帰東の途に上ぼりしときは、相沢と議《はか》りてエリスが母に微《かすか》なる生計《たつき》を営むに足るほどの資本を与へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。

嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我|脳裡《なうり》に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。

[#地から2字上げ](明治二十三年一月)

底本:「現代日本文學大系7」筑摩書房

1969(昭和44)年8月25日初版第1刷発行

1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行

入力:多羅尾伴内

校正:蒋龍

2004年6月29日作成

青空文庫作成フ?アル:

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七年级普通版汉语上册第十四课吧塔吉克族的鹰舞教案

第十四课塔吉克族的鹰舞 讲解词语 教学目标;让学生掌握本课词语的正确音,型.意. 能力目标;让学生用词语造句,组词组,并灵活的运用到生活当中去. 情感目标:对学生进行学好词语,打好基础的教育。 重点::让学生掌握本课词语的正确音,型.意. 难点;让学生用词语造句,组词组,并灵活的运用到生活当中去. 处理方式:让学生多读词语,多练习词语及给他们多模仿造句来处理。教学与学习手段:教材,词典 教学方法:引导法,讲解法 教学步骤; ①前提测评与导入新课, ②组织教学,讲词语(领读,齐读,抽读,解释词语,举例组词组,造句,让学生组词组,造句纠正错误),做语词于联系的词语,布置作业. 导入新课;关于塔吉克族,你们大家了解吗?他们崇拜什么呢?请大家说一说? 教学过程;重点词语示列 1.崇拜;尊敬钦佩。 1)很多人崇拜周恩来总理。 2)我很崇拜歌星阿卜杜拉阿卜杜热伊木。 2.列;1,动词,排列,如;列队,2.安排到某类食物之中。如;把发展交通农村事业列为重要人物之一。 3.量词,用于成行列的事物,一列火车,一列队伍。 3.忠诚;指对国家,对人民,对事业,对上级,对朋友等真心诚意,

尽心尽力,没有二心。如;忠诚老师,忠诚勇敢,忠诚可靠,对祖国无限忠诚。 4.正义;对政治,法律,道德等领域中的是非,善恶做出的肯定判断。作为道德范畴,与“公正”同意主要指符合道德规范的行为。 1.他是一个很有正义感的男人。 5.启发;开到指点,使产生联想并有所领悟。 这番话对我很有启发。 6.弯曲;不直,弯弯的小路。 7.伴奏;歌唱跳舞和独奏时用器乐配合。无伴奏合唱,伴奏合唱。 8.固定;不变动不移动的(跟“流动”相对)。变动职业,使固定,把学习制度固定下来 9.渴望;迫切的希望。渴望和平,同学们都渴望着和这位作家见面。相关练习 (一):看拼音写词语 Chongbai崇拜忠诚zhongcheng yingdi鹰笛稍微shaowei banzou伴奏 kewang渴望 (二):改正下列词语中的错别字。 宗拜(崇拜)忠城(忠诚)消微(稍微)摸仿(模仿) 拌奏(伴奏)舞滔(舞蹈)喝望(渴望)节秦(节奏)3.用指定的词语完成下列句子。 1.他很崇拜艾尔肯,所以他经常去听艾尔肯的演唱会。 2.塔吉克族在草原上自由地生活。

人教版八年级音乐下册教案-阳光照耀着塔什库尔干

欣赏课 《阳光照耀着塔什库尔干》 欣赏课《阳光照耀着塔什库尔干》 教材分析: 小提琴独奏曲《阳光照耀着塔什库尔干》由作曲家陈钢根据吐尔逊卡的尔所作歌曲《美丽的塔什库尔干》和刘富荣改编的笛子独奏曲改编,完成于1976年。其中应用了新疆塔吉克族的音乐素材,具有浓厚的民族风情。 教学目标: 1、认识波斯-阿拉伯音乐体系下独特的塔吉克调式,体会多变的节拍与节奏,如7/8拍及多种节拍混合性的特征。 2、聆听作品,熟悉乐曲的各个主题,试着哼唱纵情高歌的第一主题,同时,从节拍、节奏、调式、音乐情绪等音乐要素上分析热烈起舞的部分,尝试用动作跟着音乐“起舞”。 3、知道乐曲的创作背景、演奏形式和创作手法,了解作曲家陈钢,认识小提琴及华彩乐段等知识。 教学重点:熟悉塔吉克调式和塔吉克节拍,跟唱音乐主题,感受塔吉克调式与节拍的多变性。 教学难点:7拍子的认识与运用,用正确的节拍时值哼唱音乐主题。 教学过程: 一:导入 我们国家有56个民族,其中55个少数民族,他们生活在不同的区域,有着不同的生活习惯、风土人情、饮食习惯以及不同的宗教信仰,形成自己独特的音

乐文化,其中有一个民族从他们出生起就能歌善舞,可以用一句话来形容,就是“他们的血液中都流淌着音乐”,今天我们就带着这份神秘走入这个少数民族。一起来体验一下他们的文化生活,至于是哪个民族?先给大家留个悬念,我们先来看一段视频,大家要注意观察它的画面和音乐,里面都有重要的提示信息。(播放PPT 1 “帕米尔之情”舞蹈视频) (PPT 2 出示问题) 1、视频中舞者跳的是我国哪个地区的舞蹈?(新疆地区) 2、视频中舞者的舞蹈动作在模仿什么动物?(雄鹰) 这段舞蹈是这个民族特有的“鹰舞”,在这个民族视雄鹰为强者,英雄,舞蹈便是与鹰的习性、动态联系在一起,于是形成了“鹰舞”。 3、其背景音乐用了哪些乐器来为舞蹈伴奏?(PPT 3乐器介绍) 新疆手鼓(打击乐器)、鹰笛(舞蹈开始舞者手里拿的乐器,用鹰的翅膀骨制作而得名。)热瓦普(弹拨乐器) 二、塔吉克族的节奏和旋律: 其中我们最熟悉的应该就是新疆的手鼓了。(PPT 4) 1、新疆的手鼓又称“达甫”,是以其音响命名,因敲击时发出“达”“甫”两种 声音而得名。 2、试打节奏: 下面我给大家一条新疆的节奏。(ppt出节奏) (1)念节奏:(模仿“达”“甫”,达相对强,甫相对弱) (2)拍号缺失:一小节有7拍,所以是八分音符为1拍,7/8(ppt出7/8,出含义)

日本文学

啓蒙思潮 学問の進め 翻訳文学 翻訳小説 政治小説 三大政治小説 写実为義 小説神髄(あらすじ、文学的価値、刊行時間) 言文一致体 擬古典为義 硯友社 尾崎紅葉 紅露時代(二人の区別) 浪漫为義 森鴎外の創作活動 没理想論争 舞姫 文学界と北村透谷 内部生命論 樋口一葉 徳富蘆花(不如帰、自然と人生) 国木田独歩 泉鏡花 観念小説 高山樗牛 社会小説 川上眉山 新体詩 新体詩抄 若菜集 土井晩翠 明治元年~明治19年の概況 明治改元以後の10年:江戸文化の亜流時代(劇作文学)徳川文学の残滓 11年以後:翻訳文学全盛期 13ごろ以後:政治文学の隆昌期 啓蒙思想?思潮: 文明開化のスローガンの下に封建的諸制度?因習?偏見を打破し、先進国家欧米の近代思想を普及させようとした指導的思潮。この運動は幕末以来の知識人(福沢諭吉、中江兆民ら)よりなされた。彼らは欧米諸国を模範し、人間平等、自为独立、自由民権、科学知識尊重の精神を鼓吹し、新時代に指針を与えた。 「明六社」を中心に多岐に渡る啓蒙活動は、当時の日本の発展段階に即応し、感化と希望を与えた点で、歴史的意義を持つものであった。

啓蒙思想の特徴: 第一に、为知为義 第二に、自由为義 第三に、実用为義?功利为義 「西洋事情」(慶応2~明3) 「文明論之概略」(明8?4) 「学問の進め」 冒頭:天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり。されば、天より人を生ずるには万人は万人皆同じ位にして、生まれながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもて天地の間にあるよろつの者の資り。もて衣食住の用を達し、自由自在ふたたびに人の妨げをなさずして各安楽に此の世を渡しめたまふの趣意なり。 文学価値:近代社会における学問論、教育論、社会論を平明に説いたもので、圧倒的な影響力を発揮した。明治時代における最大のベストセーラとなった。 啓蒙期の文芸: 劇作文学:上の文学(漢詩文、和歌、和文) 下の文学(劇作、小説、俳諧、落語、川柳、浄瑠璃、歌舞伎) 近代では、上の文学は文学で、下の文学は非文学である。 中世劇作文学様子 享保時代(1716~1736) 封建体制が固定化した飽和状態を呈した。自己閉塞と自己为張の矛盾に悩んだ知識人はその超克を余技的な芸術の世界に求めるようになり、特に高踏的な精神で俗に遊び風潮は流行、ついに新様式の小説を創出するに至った。 思想的には徂徠の護園学や老荘思想、陽明学の影響。 前期では:読者は作者と同好の間柄で、その仲間内でこそ最も良く鑑賞されるという傾向をある。 後期では:読者は大衆化し作品は商品して、書肆の役割は増大した。 寛政時代:知識人が劇作界を去り、前期の余技性、遊芸性、高踏性などは単なる形式的姿勢に変わり、専門的、半専門的な作者が出現し表現技巧を競ったが、内容的には通俗的にならざるをえなかった。 明代初期の劇作文学代表作家: 仮名垣魯文。劇作者、新聞記者、滑稽物の「万国航海西洋道中膝栗毛」、「牛店雑談安愚楽鍋」「胡瓜遣」の最後の劇作者。 仮名垣魯文、山々亭有人、成島柳北の「柳橋新誌」→漢文体劇作 済藤緑雨、饗庭皇村→命脈をつなぎ 十返舎十九の「東海道中」 「牛店雑談安愚楽鍋」誠之堂刊。 劇作隆から出た文人として、饗庭皇村と須藤南翠は明治初期の二文星として、過渡期文学の代表者であった。 翻訳文学 新たに啓蒙思想を代表し、江戸明治両時代の橋渡しとなって、従来の新文芸をましまねいたのは翻訳文学であった。西洋文学の翻訳は明治初期においてはイギリス文学の移入を第一とし、フランス?ロシアの順でこれに次いでいる。翻訳文学の目的は外国の社会風俗を移して文明開化の一端とし、日本の文化に摂取せしめようとしたのであった。

民族舞教程:塔吉克族鹰舞

民族舞教程:塔吉克族鹰舞 塔吉克族是我国古老的民族之一,主要聚居在新疆塔什库尔干塔 吉克自治县,其余则分布在该县以东的莎车、叶城、泽普等县。坚韧 不拔的意志和一往无前的大无畏民族精神逐渐形成了塔吉克民族特殊 的审美追求。他们视鹰为强者、英雄,在民间广布相关鹰的民歌和传说,甚至连舞蹈的起源都与鹰的习性、动态联系在一起,于是形成了" 鹰舞"。 一、艺术特色 鹰舞是塔吉克族的民间传统自娱性舞蹈,场地不受限制。无论田 埂地头、庭院室内,只要人们兴致所至都可起舞。其舞步与鹰笛的曲 调是一致的,主要是八分之五拍、八分之六拍、八分之七拍,基本动 作是:腰微弯,右臂朝前伸,手指微朝上,左臂弯曲朝后,位于腰部,手指伸开。脚步随着笛声和鼓点旋转360度,此时,收回右臂放在背后,伸出左臂朝前。有时两臂平行,有时两臂一上一下,恰似鹰的翅膀,脚步随鼓点和笛声可旋转180度和360度,也可朝前和左右前进。无论在旋转或是在前进时,两肩还要随着曲调的节奏不停地一上一下 地抖动。鹰舞主要是男人的舞蹈,但也有男女合跳的,也有集体跳的,遇到节日或是婚礼,只要是鹰笛和手鼓声一响起,男男女女都会翩翩 起舞。在鹰舞中还有"马舞"、"箭舞"、"刀舞"等舞蹈,也是用鹰笛和 手鼓伴奏,其舞步和鹰舞的步伐差不多。舞蹈开始时,往往先由一名 舞技较高者下场,接着,众人便纷纷下场共舞。 塔吉克族舞蹈特色的形成和伴奏乐器及其特有的演奏方法分不开,鹰笛、手鼓、拉巴甫(热瓦甫)、布兰孜库姆、塔吉克式艾捷克都是 其广泛使用的民间乐器。其中鹰笛是塔吉克族最典型的乐器,吹奏技 法繁难,但音调别致、美妙。鹰笛是用鹰的翅骨做成的,只由三孔, 也称"三孔骨笛",塔吉克语称"斯特洪诺依"。"斯特洪"为骨的意思," 诺依"是笛子的意思。笛长约25厘米到26厘米左右,整个鹰笛稍有弯曲,吹的一头直径稍大,约有1.5厘米左右,有孔的一头直径较小,

第14课塔吉克族的鹰舞

第十四课维吾尔族的传统居住 课型:电教课,讲解课。 授课时间:2016年月日——2016年月日 教学目标: 知识与能力目标:通过自读理解,讨论交流,归纳完善,使每个学生都 完全理解课文内容和结构,掌握课文的叙述次序和表述方式,理解疑难 句型,并能模仿造句。丰富学生的词汇知识,能用所学过的词汇量发展 社交能力,培养学生用汉语直接思维并能用汉语回答问题的能力。能初 步理解课文中的思想感情。 过程与方法目标:通过自读理解,老师指导朗读,讨论,交流归纳完善, 以及老师的讲解与答疑,通过自学,合作学习,查字典,同伴互助,自 主阅读等方式认识生字,理解词语,理解课文内容,学习重点词语和重 点句型。较流利,准确的,有感情的朗读课文,读懂每句话,理解课文 内容,提高阅读和口语表达能力。 情感态度与价值观目标:通过学习课文,教育学生热爱家乡为家乡的繁 荣富强做出贡献。 教学重点:在理解的基础上掌握本课词语的字音、字形,掌握词语的用 法,能用词语造句。掌握重点词语和句式。 教学难点:2、理解课文内容。联系生活,围绕文中的话题进行相关交际。 教学重难点解决方法:1. 督促学生反复学习,复习所学内容,出示问题使 学生自主学习的方式来回忆读书经历接近课堂。 2.指导学生把握本文独特的写法,学习运用选取描写亲情的独到 角度。准确,流利、有感情的朗读课文;揣摩词句的含义,品读文章清 新质朴的语言。 3. 指导学生在阅读中圈点勾画,随时批注阅读的心得体会,让他们 成为阅读的主体,逐步提高阅读能力,特别是品评鉴赏能力。教师出示 学生自主学习的内容,学生读课文,弄清字、词、节奏并把握与其和感 情,学生圈画信息,培养学生自己思考问题的积极性,使学生更好的整 体把握课文。 4. 教师采用引导法,讨论指导法等方法来教授课文(多媒体显示) 让学生分组讨论,积极提问,使让课堂气氛活跃,让学生更好的分析人

日语专八文学史复习提纲

日语专八文学史复习提纲 (一)古代前期の文学(奈良時代) 口承文学の時代から記載文学の時代へ 記紀文学:古事記、日本書紀を併せた略称。 記紀歌謡:古事記、日本書紀に記されてある古代歌謡. ①古事記(712):日本現存最古の書籍である。 ②日本書紀(720):漢文の編年体で書かれた正式の歴史(国史)。 編者:太安万侶.成立:元明天皇の勅命により編纂。文体:変体の漢文体 風土記(713):日本の最初の地誌である。 懐風藻(751):日本最古の漢詩集。 万葉集(759):日本最古の歌集である。成立年代は定かでない。約4500首、二十巻。表記:万葉仮名。柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は万葉中最高の歌人と見られ、歌聖だと言われている。 歌経標式(772):日本最初の歌学書。作者:藤原浜成。 (二)古代後期の文学(平安時代) 唐風文化から国風文化へ 古今和歌集(905):略して「古今集」。日本の最初の勅撰和歌集であり、平安時代の代表的な歌集である。 撰者:紀貫之(きのつらゆき)、紀友則(きのとものり)、壬生忠岑(みぶのただみね)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の四人。 内容構成:約1100首、二十巻。 凌雲集(814):最初の勅撰漢詩集。作者:小野岑守。 文華秀麗集(818):勅撰漢詩集。作者:藤原冬嗣ら。

経国集(827):勅撰漢詩集。作者:良岑安世。 竹取物語:現存する日本最古の物語であり、「物語の祖」と言われている。 成立:9世紀末――10世紀初め頃、定説が無い。 伊勢物語:日本最初の歌物語である。 作者未詳。10世紀初め頃に成立したと言われているが、定説が無い。 堤中納言物語(つつみちゅうなごんものがたり):日本文学史における最初の短編小説集である。 12世紀の平安後期。作者未詳。「虫めづる姫君(訳=蝶が好きな姫君)」など10篇の短編小説よりなる。 源氏物語(1008):世界最古の長編小説、写実小説.54巻。日本文学の最高峰。 作者:女流作家の紫式部 史的評価:写実的な「まこと」とロマン的な「もののあはれ(物哀)」を十分に書き上げた。日本古典の最高峰。成熟した王朝貴族文化の頂点を極める最高の美意識と言える。 栄華(花)物語:編年体で綴られている日本最初の歴史物語である。藤原道長の栄華を中心に。 大鏡:藤原道長の栄華を中心とした歴史物語で(内容同上)、最初の鏡物(かがみぶつ)である。 他の三鏡:今鏡(いまかがみ)、水鏡(みずかがみ)、増鏡(ますかがみ)。四鏡(しきょう)。 今昔物語集:日本最大の説話集。12世紀ごろ成立。 土佐日記(930):女性の名に仮託して、仮名文字で書いた日本最初の日記である。 作者:紀貫之。 蜻蛉日記(974):女性が書いた最初の仮名日記である。平安時代の女流日記文学の代表的作品。自照文学(自分の内面を照らし出し客観化して描くこと)の最初の作品。

《塔吉克族的鹰舞》教案1

第十四课:塔吉克族的鹰舞 第一课时: 教学目标 【识记】:记住本课生字和词语的读音和写法 【理解】:理解本课词语的意思及用法 【运用】:能用本课词语造句说话 【重点,难点】 【重点】:记住本课生字和词语的读音和写法 【难点】:理解本课词语的意思及用法 【解决方法】:督促学生反复学习,复习所学内容 【教具】:书,黑板,字典,素质教育新教案 【德育】:对学生进行传达和继承民族传统教育。 【教学方法】:听写法,讲解法和练习法。 【前提测评】:听写下列词语 崇拜鹰忠诚正义模仿启发弯曲伴奏固定曲调渴望赞美舞蹈节奏遗产名录【导入新课】 请同学们比一比下列的形近字: 崇—宗拌—伴城—诚模—摸消—稍 蹈—蹈喝—渴奏—揍微—教遗—贵 【学习词语】 第十四课:塔吉克族的鹰舞 第一课时: 教学目标 【识记】:记住本课生字和词语的读音和写法 【理解】:理解本课词语的意思及用法 【运用】:能用本课词语造句说话 【重点,难点】 【重点】:记住本课生字和词语的读音和写法 【难点】:理解本课词语的意思及用法 【解决方法】:督促学生反复学习,复习所学内容 【教具】:书,黑板,字典,素质教育新教案 【德育】:对学生进行爱国教育。

【教学方法】:听写法,讲解法和练习法。 【前提测评】:听写下列词语 崇拜鹰忠诚正义模仿启发弯曲伴奏 固定曲调渴望赞美舞蹈节奏遗产名录【导入新课】 请同学们比一比下列的形近字: 崇—宗拌—伴城—诚模—摸消—稍 蹈—蹈喝—渴奏—揍微—教遗—贵 【学习词语】 【词语】:崇拜 【注音】:CHóNG BàI 【释义】:尊崇敬拜:对英雄人物非常崇拜|个人崇拜|无限崇拜。【词语】:忠诚 【注音】:ZHōNG CHéNG 【释义】:指对国家、对人民、对事业、对上级、对朋友等真心诚意、尽心尽力,没有二心:忠诚老实|忠诚勇敢|忠诚可靠|对祖国无限忠诚。 【词语】:正义 【注音】:ZHèNG Yì 【释义】:对政治、法律、道德等领域中的是非、善恶作出的肯定判断。作为道德范畴,与“公正”同义,主要指符合一定社会道德规范的行为。人们的行为是否符合历史发展规律和最大多数人民的根本利益,是判断人们行为是否符合正义的客观标准。 【词语】:模仿 【注音】:Mó/Mú FǎNG 【释义】:个体自觉或不自觉地重复他人的行为的过程。是社会学习的重要形式之一。尤其在儿童方面,儿童的动作、语言、技能以及行为习惯、品质等的形成和发展都离不开模仿。可分为无意识模仿和有意识模仿、外部模仿和内部模仿等多种类型。 【词语】:启发 【注音】:Qǐ Fā/Fà 【释义】:①开导指点,使产生联想并有所领悟:启发式教学|这番话对我很有启发。②阐明;阐释:启发篇章,校理秘文。 【词语】:弯曲

森鸥外

森鸥外 森鸥外是明治时代的文豪,既是医生也是作家。可能因为他的官职是陆军医务局长的缘故,所以给人一种顽固死板的印象。森家家世是位于岛根县西南部的津和藩藩主的内科医生,祖父和父亲两代均是入赘女婿,之后生下的嫡子正是鸥外。他身负一家人的期待也是理所当然,从小便学习《论语》、《孟子》、《四书五经》,培育出了文学方面的才华。 13岁考进现在的东京大学医学系,充分发挥了他的才华天份,他是大学创办以来最年 少的19岁毕业生。之后,任职陆军军医,22岁时留学德国。他在德国和一位名叫爱莉丝的女子相恋,回国后,爱莉丝追到日本,差点成为丑闻。爱莉丝虽然追到日本,却遭到森家全家人反对,只得伤心回国。这个爱莉丝正是鸥外的处女作《舞姬》的女主人公原型。 尔后不到半年,在周围人的安排下,鸥外不情愿地只看照片定了姻缘。但是,没有爱情的婚姻不持久,维持不到两年便结束。之后,鸥外一直持续着11年的单身生活。其间,有人来说了几次媒,但鸥外都不理会。鸥外在41岁时,总算决定再婚。第二位妻子茂子长得非常漂亮,当时还很年轻,只有23岁,不过她跟鸥外一样,有过一次失败的婚姻。 婚后,两人来到新的工作地点小仓,过着新婚生活。然而,两个月后,也是因工作上的调动而回到东京,与鸥外的母亲峰子共同居住。峰子不但紧握家计大权,也时常照管鸥外的生活琐事。如此,引发婆媳战争。算起来,鸥外袒护母亲的次数比较多。茂子终于变得不想跟峰子说话,也不想跟峰子见面,只是一个人在另外的房间吃饭。 鸥外夹在妻子和母亲之间左右为难,为了间接劝导妻子反省,发表了一篇暴露森家家庭内情的小说〈半日〉。〈半日〉中详细地描述了婆媳间的纠纷。好胜又歇斯底里的茂子看了〈半日〉,不但不反省,反倒勃然大怒。婆媳问题闹了14年,一直持续到峰子过世为止。 不过,鸥外肯定深深爱着这样的妻子。茂子似乎也深深爱着鸥外。鸥外在晚年患上肺病和肾脏病时,坚持不接受医生的诊断,茂子哭得双目红肿才说服了丈夫。结果,鸥外将验尿瓶送到身为知己的医生之处时,附上如下的便条。 「这并非鄙人的尿水,而是妻子的泪水。」 ******* 森鷗外といえば明治の文豪、医者でありながら作家でもあった人物だ。陸軍医務局長という役職のせいか、お堅いといった印象が強い。森家は島根県の南西に位置する津和野藩の藩主に仕える内科医の家柄であり、祖父と父が二代にわたって入り婿が続いたあと、嫡男として誕生したのが鷗外である。一家の期待を集めるのも当然で、幼いころから『論語』や『孟子』、『四書五経』を学び、文学的才能を育んでいった。 13歳にして現在の東京大学の医学部に入学すると、その秀才ぶりを遺憾なく発揮し、大学始まって以来、最年少の19歳で卒業している。その後、陸軍の軍医として勤めていた鷗外は、22歳のときにドイツに留学。ドイツで、鷗外はエリスという女性と恋仲になり、鷗外が帰国したあと、エリスが日本まで追いかけてきて、危うくスキャンダルになりかかった。彼女は追いかけてきたものの、森家一同の大反発によって、傷心のうちに帰国した。そのエリスこそ、鷗外の処女作『舞姫』のモデルであった。 それから半年もたたないうちに、鷗外は周囲の進めるまま、気の乗らない写真婚をする。けれども、愛情のない結婚生活は長続きせず、2年たらずで破綻してしまう。以後、鷗外は11年にわたって独身生活を続けた。その間、何度か縁談話が持ち込まれたものの、鷗外は取り合わなかった。鷗外が41歳になったとき、ようやく再婚する気になった。その二人目の妻、茂子は大変な美人で、当時まだ23歳という若さだったが、鷗外同様、最初の結婚に失敗していた。

伊豆的舞女

川端康成 ?1 人物简介 ?2 作品风格 ?3 主要作品 —及诺贝尔文学奖作品简介?4 名人语录

川端康成-人物简介 ?1899年6月14日-1972年4 月16日 ?日本文学界“泰斗级”人 物 ?亚洲第二位获诺贝尔文学 奖的人 ?1968年获得诺贝尔文学奖 的首位日本作家

川端康成-人生经历 ?日本新感觉派作家,著名小说家。 ?出生在大阪。幼年父母双亡,后祖父母和姐姐又陆续病故,孤独忧郁伴其一生。作品富抒情性,追求人生升华的美,并深受佛教思想和虚无主义影响。 ?川端担任过国际笔会副会长、日本笔会会长等职。1957年被选为日本艺术院会员。曾获日本政府的文化勋章、法国政府的文化艺术勋章等。“以非凡的锐敏表现了日本人的精神实质”,于1968年获诺贝尔文学奖。 ?在荣获诺贝尔文学奖三年之后,1972年4月16日,川端康 成突然采取含煤气管自杀的形式离开了人世,川端康成未留下只字遗书。但他早在1962年就说过:“自杀而无遗书,是最好不过的了。无言的死,就是无限的活。”

川端康成-作品风格 川端康成一生写了100余部长篇、中篇和短篇小说,此外还有许多散文、随笔、讲演、评论、诗歌、书信和日记等 他战前和战时的创作,可以大致归为两类: 一类是描写他的孤儿生活,抒发孤独感情,描写失 恋过程,抒发他痛苦感受的作品。《精通葬礼的人》、《十六岁的日记》和《致父母的信》等是这类作品的代表。 1 另一类是描写处于社会下层的人物,尤其是下层妇女(如舞女、艺妓、女艺人、女侍者等)的悲惨遭遇,表现她们对生活、爱情和艺术的追求的作品,如《招魂节一景》《伊豆的舞女》、《温泉旅馆》、《花的圆舞曲》和《雪国》等是这类作品的代表。2

塔吉克鹰笛

塔吉克族鹰舞 百科名片 鹰舞是中国民间舞蹈中极具特色的传统舞蹈形式,艺术价值很高。随着现代化进程的加速,这些珍贵的民间艺术日渐失去生存的土壤,面临困境,亟待保护与抢救。我国新疆的塔吉 克族视鹰为强者、英雄,在民间广布有关鹰的民歌和传说,甚至连舞蹈的起源都与鹰的习性、动态联系在一起,于是形成了“鹰舞”。 基本信息 时间:2006年 类别:民间舞蹈 地区:新疆 编号:Ⅲ-41 申报地区或单位:新疆维吾尔自治区塔什库尔干塔吉克自治县 简介 塔吉克族是我国古老的民族之一,主要聚居在新疆塔什库尔干塔吉克自治县,其余则分布 在该县以东的莎车、叶城、泽普等县。坚韧不拔的意志和一往无前的大无畏民族精神逐渐 形成了塔吉克民族特殊的审美追求。他们视鹰为强者、英雄,在民间广布有关鹰的民歌和 传说,甚至连舞蹈的起源都与鹰的习性、动态联系在一起,于是形成了"鹰舞"。 塔吉克族被视为“鹰之族”,他们对鹰有特殊的感情,鹰舞是他们最喜爱的舞蹈。 鹰舞多以双人舞形式在喜庆佳节或家庭晚会中表演。从内容到形式皆模拟鹰的动作。跳舞时,众人围坐或半围坐,男女相邀,成双而舞;有时若干对舞伴同时表演。 男子舞姿俊健、纯朴、粗犷。主要动作有伸展双臂(前臂较高,后臂较低),前后摆动,舞 步灵活多样。高潮时,激烈抖动双臂并摊开双掌,向左右旋转和侧身跃起,作雄鹰展翅, 搏击风云之势。女子舞步和舞姿略同男子,仅步距比男子小而轻盈。双手在头部向里或向 外旋抹,动作舒展而柔和。以手鼓为主要伴奏乐器,通常7/8为舞蹈基本节奏,间以口哨 击掌和呼喊“拉泼依”烘托气氛。 艺术特色 像鹰一样自由 鹰舞是塔吉克族的民间传统自娱性舞蹈,场地不受限制。无论田埂地头、庭院室内,只要 人们兴致所至都可起舞。其舞步与鹰笛的曲调是一致的,主要是八分之五拍、八分之六拍、八分之七拍,基本动作是:腰微弯,右臂朝前伸,手指微朝上,左臂弯曲朝后,位于腰部,手指伸开。脚步随着笛声和鼓点旋转360度,此时,收回右臂放在背后,伸出左臂朝前。 有时两臂平行,有时两臂一上一下,恰似鹰的翅膀,脚步随鼓点和笛声可旋转180度和 360度,也可朝前和左右前进。无论在旋转或是在前进时,两肩还要随着曲调的节奏不停 地一上一下地抖动。鹰舞主要是男人的舞蹈,但也有男女合跳的,也有集体跳的,遇到节 日或是婚礼,只要是鹰笛和手鼓声一响起,男男女女都会翩翩起舞。在鹰舞中还有"马舞"、"箭舞"、"刀舞"等舞蹈,也是用鹰笛和手鼓伴奏,其舞步和鹰舞的步伐差不多。舞蹈开始时,往往先由一名舞技较高者下场,接着,众人便纷纷下场共舞。 伴奏乐器及特有的演奏方法 塔吉克族舞蹈特色的形成和伴奏乐器及其特有的演奏方法分不开,鹰笛、手鼓、拉巴甫 (热瓦甫)、布兰孜库姆、塔吉克式艾捷克都是其广泛使用的民间乐器。其中鹰笛是塔吉 克族最典型的乐器,吹奏技法繁难,但音调别致、美妙。鹰笛是用鹰的翅骨做成的,只由 三孔,也称"三孔骨笛",塔吉克语称"斯特洪诺依"。"斯特洪"为骨的意思,"诺依"是笛子的意思。笛长约25厘米到26厘米左右,整个鹰笛稍有弯曲,吹的一头直径稍大,约有1.5 厘米左右,有孔的一头直径较小,约有1厘米左右。鹰笛的曲调有固定的曲目,如在婚礼

日本知识

日本文化知识竞赛 1.针对日本老龄化的现象,引发的又一现象是(弃老现象) 2. 日本国一词意即“日出之国”,日本国旗(太阳旗),呈(长方形),旗面为白色,正中有一轮红日。白色象征正直和纯洁,红色象征(真诚和热忱)。 4. 富士山地处静冈县和山梨县境内。 5. 日本水产资源丰富,渔业发达是因为(寒暖流交汇形成天然渔场) 6. 日本最权威的音乐榜是( 公信榜) 7. 中国最近一次赠送给日本的大熊猫叫(陵陵) 8. 日本意识流派的作家是( 村上春树) 9:2008年北京奥运会开幕式日本旗手是( 福原爱) 10. 日本(1998 )年在长野举办冬季奥运会。 11.在火影忍者中给漩涡鸣人配音的声优是( 竹内顺子) 12:诞生于日本的体育运动是:柔道 13:日本议会泛称国会,由(众、参两院)组成,为最高权力机关和唯一立法机关 ()为日本国和日本国民总体的象征,无权参与国政。日本居民中人数最多的民族是()族 日本人最喜爱的花是()。 日本人当今最喜欢的运动是()。 东京古称()。 在日本被称为“百变歌姬”的女艺人是()。 成人节,庆祝年满()的青年成为具有公民权的“大人”的节日。1948年,经前述立法正式确定为成人节 迪斯尼乐园位于()。 松下电子的创始人是() 日本最大的日本一级行政区中的2府指的是(),()。 日本人信仰人数最多的宗教是( )。 「暴走族」其实就是日文的「」之意。 曾与中国歌手孙燕姿合作演唱tonight I feel close to you 的日本歌手是() 日本的北部有世界著名的大渔场,其名称是()渔场。 日本的都、()、府、县是平行的一级行政区,直属中央政府,但其都拥有自治权。 “草食系男子”的特征是()?C对恋爱不积极草食系男子特点:他们是新时代的温柔男性,对待爱情像食草动物一般友善温和,在感情关系和人际交往上缺乏主动性,内心深处惧怕被伤害或因性格腼腆不愿与异性接触。但是,他们用情专一、无微不至,一旦认定便值得托付终身。

【VIP专享】日本近代文学作家及作品时间表

明治文学 成立作品名作者?編者ジャンル 1871年安愚楽鍋仮名垣魯文小説 1871年西国立志編中村正直(訳)評論 1872年学問のすゝめ福沢諭吉評論 1874年柳橋新誌成島柳北随筆 1877年民約論中江兆民訳評論 1882年新体詩抄外山正一ら(訳)詩 1885年当世書生気質坪内逍遙(写実主義)小説 1885年小説神髄坪内逍遙(写実主義)評論 1886年小説総論二葉亭四迷(写実主義)評論 1887年浮雲二葉亭四迷(写実主義)小説 1887年武蔵野山田美妙(擬古典主義)小説 1889年風流仏幸田露伴(擬古典主義)小説 1889年於母影森鴎外(訳)小説 1890年舞姫森鴎外(浪漫主義)小説 1891年五重塔幸田露伴(擬古典主義)小説 1891年蓬莱曲北村透谷(浪漫主義)詩 1892年即興詩人森鴎外(訳)小説 1893年内部生命論北村透谷(浪漫主義)評論 1895年たけくらべ樋口一葉(擬古典主義)小説 1895年にごりえ樋口一葉(擬古典主義)小説 1897年金色夜叉尾崎紅葉(擬古典主義)小説 1897年若菜集島崎藤村(自然主義)詩 1898年歌よみに与ふる書正岡子規評論 1898年くれの廿八日内田魯庵小説 1898年不如帰徳富蘆花小説 1898年武蔵野国木田独歩(浪漫主義)小説 1900年高野聖泉鏡花小説 1901年みだれ髪与謝野晶子短歌 1905年海潮音上田敏訳詩集 1905年吾輩は猫である夏目漱石(反自然主義)小説1906年破戒島崎藤村(自然主義)小説 1906年坊っちゃん夏目漱石(反自然主義)小説 1906年草枕夏目漱石(反自然主義)小説 1906年野菊の墓伊藤左千夫小説 1907年蒲団田山花袋(自然主義)小説 1907年虞美人草夏目漱石(反自然主義)小説 1908年三四郎夏目漱石(反自然主義)小説 1909年あめりか物語永井荷風(耽美派)小説 1909年それから夏目漱石(反自然主義)小説 1909年田舎教師田山花袋(自然主義)小説 1909年邪宗門北原白秋(耽美派)詩 1910年家島崎藤村(自然主義)小説

森鸥外

森鸥外 森鸥外(1862~1922) 日本小说家、评论家、翻译家。本名森林太郎,号鸥 外,别号观潮楼主人、鸥外渔史。1862年7月9日生于日本石见(今岛根 县)鹿足郡一藩主侍医家庭。从小受到良好的国学、汉学和兰学(江户时 代中期以后由荷兰传入日本的西方学术)教育。1882年毕业于东京第一大 学医科学校,曾任陆军军医。1884年赴德国留学,广泛涉猎欧洲古今名著, 深受叔本华、哈特曼的唯心主义影响,哈特曼的美学思想成为他后来从事 文学创作的理论依据。1888年回国,历任军医学校教官、校长、陆军军医 总监、陆军省医务局长等职。 森鸥外留学归来,以启蒙家的姿态开始文学活动。他翻译西方著名作家歌德、莱辛、易卜生等人的作品,同时创办《栅草纸》等文学刊物,介绍西方美学理论,开展文艺批评,并致力于戏剧改良、诗歌革新活动,在日本近代文学中产生过较大的影响。1890年发表的处女作《舞女》,连同他的《泡沫记》和《信使》被认为是日本浪漫主义文学的先驱之作。《舞女》的主人公是一个留学德国的日本青年官吏,为了追求个性解放和纯洁的爱情,他曾爱上一个德国穷舞女,但在日本专制官僚制度和封建道德的压力下,终于遗弃了她,酿成爱情悲剧。作品反映了个性解放的要求与社会现实的矛盾,最终却与现实妥协。一般认为它是日本近代文学初期的代表作品。 1910年前后,森鸥外写了《青年》、《雁》等取材于现代生活的小说。《雁》是作者这一时期创作的艺术成就较高的作品,描写明治年间一个贫苦的少女沦为高利贷主的情妇;她渴望摆脱这种屈辱的境地,暗自爱上一个每天从门前经过的大学生,但由于一个偶然的原因,失去了表白爱情的机会,她追求幸福的努力终于化为泡影。作者怀着同情写出一个普通妇女的不幸,但却把这种不幸归结为偶然性的恶作剧,最后用一只碰巧被飞石击毙的雁来象征她的命运。日本评论家认为,作品的心理刻画细腻,人物、场景描写逼真。 1910年日本政府制造了所谓“大逆事件”,加强了对思想文化界的专制统治,森鸥外开始转向历史小说的创作。他把自己的历史小说分为“遵照历史”和“脱离历史”两类。前者完全依据史料写作,后者则借助历史事件的描述来表达作者的理想和信念。第一篇历史小说《兴津弥五右卫门的遗书》,赞美武士殉死行为。但紧接着创作的同一题材的短篇小说《阿部一家》,却客观地抨击了这一封建道德行为。阿部一家由于未被允许为藩主殉死而受到歧视,终致满门被杀戮,揭示了封建殉死制度的虚伪、腐朽和惨无人道的实质。这两篇倾向不同的作品反映了作者世界观上的矛盾。短篇小说《高濑舟》属于作者所谓“脱离历史”的历史小说。作品写一个犯人在囚船上讲述自己的经历。他的弟弟不堪贫病折磨,自刎未死,他在弟弟的恳求下帮助弟弟结束了生命,因而被判罪流放。他认为囚徒的生活比他原来的境遇还优越,所以处之泰然,这就更加深入地揭示了封建幕府时期社会底层人民的生活惨状。 晚年作者晚年埋头于史料的考证,也写过几部人物传记,如《涩江抽斋》等。所传人物多为专心学术、不问世事的学者,表现作者晚年企图摆脱世俗的心境。

日本文学总结

第一章古代前期(391-794)文学(奈良時代) 口承文学の時代から記載文学の時代へ 1、最古の書籍:「古事記」712年太安万侶(おおのやすまろ)2、最初の地志(ちし):「風土記」713年 3、最初正歴史書:「日本書記」720年舎人親王(とねりしんのう)4、最古の汉诗集(かんししゅう):「懐風藻」751年淡海三船(おうみのみふね)??? 5、最古の歌集:「万葉集」340年から759年まで大伴家持(おおとものやかもち)内容:雑歌(ぞうか)、相聞歌(そうもんか)、挽歌(ばんか)、比喩歌(ひゆか)、東歌(あづまうた)、防人歌(さきもりうた)などがある。 万葉一期(発生期)舒明天皇629年の時代から672年前後まで額田王(ぬたかのおおきみ)がその中の代表的な女流歌人 万葉二期(発展期)専門歌人が多く誕生した。特に、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は万葉中最高の歌人だ。彼は典型的な宮廷詩人で、山部赤人(やまべのあかひと)とともに后世(こうせい)に「歌圣かせい」と称されている。 万葉三期(最盛期)710年から733年まで代表的な歌人:山上憶良(やまのうえのおくら)、大伴旅人(おおとものたびと)、山部赤人(やまべのあかひと)「思想歌人」 万葉四期(衰退期)(天平6年)734年から年759まで代表的な歌人:大伴家持(おおとものやかもち) 6、最初の歌学書:「歌経標式」(かきょうひょうしき)772年藤原浜成(ふじわらのはまなり) 第二章古代後期の文学(平安時代794-1192) 唐風文化から国風文化へ 7、最古の物語(物語の祖)「竹取物語」(たけとりものがたり)9世紀末ー10世紀初空想的、ロマン的な作り物語の最初で。

日本近代文学史

近代の文学 一、写実主義 1、坪つぼ内うち逍しょう遥よう(1859-1953) 「小説神髄しょうせつしんずい」(1885) 近代的文学像と写実主義を強調した。 2.二葉亭四迷ふたばていしめい (1864-1909) 「浮雲うきぐも」(1887) 当時の社会に生きる人間の苦悩を描いたが、時代に先んじ過ぎだ。 二、擬古典主義(紅露の時代) 1.尾お崎ざき紅こう葉よう (1867-1903) ---写実主義 硯友けんゆう社を創立(日本最初の文学社) 代表作「金色夜叉こんじゃやしゃ 」(1903) 2.幸田露伴こうだろはん(1867-1947)---理想主義 「五重塔ごじゅうのとう 」(1891~1892) 「運命」 この二人は1887年の「紅露の時代」が築かれた。 三、ロマン主義 1、森鴎外もりおうがい 「舞姫まいひめ」(明治23年--1890) 浪漫三部作:「舞姫」、「うたかたの記」、「文ずがみ」 2、北村透谷きたむらとうこく 1889--「楚囚そしゅうの詩」、1891--「蓬ほう莱らい曲きょく」 1892---「厭えん世せい詩家と女性」、「内部生命論」 3、樋口一葉ひぐちいちよう(1872-1896)

1895---「たけくらべ」最大の傑作である 4、泉鏡花いずみきょうか (1873-1939) 1900---「高野聖こうやひじり」1910--「歌行燈うたあんどん」 四、自然主義(人間と現実社会的環境の暗黒を分析する) 1.島崎藤村しまざきとうそん 小説:「破戒はかい」(1906)1908--「春」、「新生」、1910--「家」 詩集:1893--「若菜集」、「夏草」 2.田た山やま花か袋たい 「蒲団ふとん」(1907) 1908--「生」、「妻」、「縁」 3、国くに木き田だ独どっ歩ぼ(1871-1908) 「武む蔵さし野の」、「牛肉と馬ば鈴れい薯しょ 」、「春の鳥」「竹の木戸」 4、徳とく田だ秋しゅう声せい 五、耽美派たんびは 1.永なが井い荷か風ふう(1879-1959)(別号は断腸亭主人と石南居士である) 「野心」、「地獄の花」「夢の女」 2.谷や崎ざき潤じゅん一いち郎ろう(1886-1965) 「痴人の愛」「春しゅん琴きん抄しょう」「細ささめ雪ゆき」「誕生」「刺し青せい」「三人法師」 世人に「文豪」と「大谷崎」と称された。 六、白しら樺かば派は(理想主義を掲げた) 1.武む者しゃ小のこう路じ実さね篤あつ(1885-1976)

日语中那些很美的词

都[みやこ]、霙[みぞれ]、花火[はなび]、物語[ものがたり]、晴明[せいめい]、夕空[ゆうぞら]、細雪[ささめゆき]、幽玄[ゆうげん]、桜流し[さくらながし]、姉小路[あねがこうじ]、西園寺[さいおんじ]、有栖川[ありすがわ]、天の川[あまのがわ]、生け花[いけばな]、輝夜姫[かぐやひめ]、花鳥風月[かちょうふうげつ]、和敬清寂[わけいせいじゃく]、一期一会[いちごいちえ]、木漏れ日[こもれび]、素晴らしい[すばらしい]、舞い落ちる[まいおちる] 月份:一月——睦月[むつき]、初空[はつそら]二月——如月(衣更着)[きさらぎ]、梅見[うめみ]三月——弥生[やよい]、夜桜[よざくら]四月——卯月[うづき]、清和[せいわ]五月——皐月(早月)[さつき]、浴兰六月——水無月[みなづき]、蝉羽[せみのは]七月——文月[ふみづき]、涼月八月——葉月[はつき]、月見[つきみ]九月——長月[ながつき]、竹醉十月——神無月[かんなづき](出云地区叫神有月[かみありつき])、時雨[しぐれ]十一月——霜月[しもつき]、神楽[かぐら]十二月——師走[しわす]、朧月[おぼろづき] 地名: ?都、道、府、县:北海道[ほっかいどう]、青森[あおもり]、宮城[みやぎ]、秋田[あきた]、埼玉[さいたま]、千葉[ちば]、神奈川[かながわ]、石川[い しかわ]、静岡[しずおか]、和歌山[わかやま]、香川[かがわ] ?市、区:岩見沢[いわみざわ]、砂川[すながわ]、旭川[あさひかわ]、富良野[ふらの]、津軽[つがる]、遠野[とおの]、湯沢[ゆざわ]、会津若松[あい づわかまつ]、須賀川[すかがわ]、霞ヶ浦[かすみがうら]、桜川[さくらがわ]、筑波[つくば]、宇都宮[うつのみや]、春日部[かすかべ]、川越[かわ ごえ]、日野[ひの]、荒川[あらかわ]、品川[しながわ]、墨田[すみだ]、横 浜[よこはま]、横須賀[よこすか]、鎌倉[かまくら]、藤沢[ふじさわ]、秦 野[はだの]、綾瀬[あやせ]、魚津[うおづ]、氷見[ひみ]、鯖江[さばえ]、芦原[あわら]、上野原[うえのはら]、海津[かいづ]、焼津[やいづ]、牧之原[まきのはら]、清須[きよす]、桑名[くわな]、鈴鹿[すずか]、舞鶴[まいづる]、淀川[よどがわ]、篠山[ささやま]、淡路[あわじ]、朝来[あさご]、香芝[か しば]、御坊[ごぼう]、境港[さかいみなと]、出雲[いずも]、江津[ごうつ]、玉野[たまの]、赤磐[あかいわ]、真庭[まにわ]、浅口[あさくち]、竹原[た けはら]、江田島[えたじま]、柳井[やない]、吉野川[よしのがわ]、宇和島[うわじま]、土佐清水[とさしみず]、香南[こうなん]、宮若[みやわか]、 筑紫野[ちくしの]、浮羽[うきは]、唐津[からつ]、荒尾[あらお]、玉名[た まな]、上天草[かみあまくさ]、津久見[つくみ]、別府[べっぷ]、指宿[い ぶすき]、宜野湾[ぎのわん]

森鸥外 舞女

はじめに 森鷗外は日本ロウマン主義の先駆者として、日本近代文学史で重要な地位を占めている。彼は自由主義思想を持つ作家でありながら、濃厚な保守思想を持つ人でもある。人性を抑える専制主義に不満を抱く人でありながら、いつも旧制度のために弁護し、旧道徳を讃美する人でもある。総じて言うと、「自覚」と「伝統」という新旧思想の矛盾性が森鷗外の身でよく見える。だから、森鷗外の作品を研究しようとするなら、彼の新旧思想の矛盾性と形成原因を深く探究することは不可欠である。 目下、『舞姫』をめぐる研究は小説のロウマン性と悲劇性に着目し、或いは特定の人物像の分析に力を尽くすのは数多いである。森鷗外自身の新旧思想の矛盾性とその不均衡な発展、そのうえ、この原因に及ぶ研究の数はまだ尐ないである。私から見ると、森鷗外の作品をより好く理解するために、これらを触れることは必要だと思う。 本文は『舞姫』の人物像を分析し、特に、新旧思想の矛盾、つまり「自覚」と「妥協」の矛盾に苦しむ太田豊太郎を深く分析した。豊太郎は新旧思想の矛盾に困る人であることが分かった。では、豊太郎は作者森鷗外とはどんな関係があるか。いろいろな資料を基づいて、豊太郎は実は森鷗外の化身であることがやっとはっきりするようになった。こうして、作者自身も新旧思想の葛藤に苦しんでいることが分かる。でも、どうしてこのような新旧思想の矛盾は森鷗外の身のうえでよく表れるか、私は作者の家庭環境、階級属性と明治、大正社会の二重性といった二つの方面でその原因を述べる。 1、森鷗外について 1.1森鷗外の生涯 本名は林太郎という。1867年(6歳)から漢学を学びはじめ、1869(8歳)から蘭学を勉め、1871年父に従って上京し、ドイツ語を学んだ。このように彼は早く東洋と西洋の二つで文学を吸収しながら成長した。1874年(13歳)東京医学校予科に入学し、1881年東京大学医学部を卒業して、陸軍軍医副に命じられ、東京陸軍医院に勤めた。1884年(23歳)陸軍衛生制度と軍隊衛生学研究のためドイツ留学を命ぜ

岛田庄司

御手洗洁系列 1《占星术杀人魔法》 1981 2《斜屋犯罪》 1982 3《御手洗洁的问候》 1987 (收录〈数字锁〉、〈狂奔的死人〉、〈紫电改研究保存会〉、〈希腊之犬〉) 4《异邦骑士》 1988 *《系锯与之字形》(收录于《卖毒的女人》,短篇) 1988 5《御手洗洁的舞蹈》 1990 (收录〈戴礼帽的伊卡洛斯〉、〈某骑士物语〉、〈舞蹈病〉、〈近况报告〉) 6《黑暗坡的食人树》 1990 7《水晶金字塔》 1991 8《眩晕》 1992 9《异位》 1993 10《龙卧亭杀人事件》 1996 11《御手洗洁的旋律》 1998 (收录〈lgE〉、〈SIVAD SELIM〉、〈波士顿幽灵绘画事件〉、〈如此遥远的光辉〉)12《御手洗先生与石冈君同行》 1998 13《上吧,御手洗君!》<与今井翼合著> 1998 14《御手洗先生的冒险》<与源一实合著> 1998 15《石冈和己的事件簿1、2 》< 与さちみりほ合著> 1999 16《P的密室》 1999 (收录〈铃兰事件〉、〈P的密室〉) 17《最后的晚餐》 1999 (收录〈里美上京〉、〈大根奇闻〉、〈最后的晚餐〉) 18《御手洗先生与石冈君同行2―Comic Anthologyー》 2000

19《御手洗洁攻略本》 2000 20《御手洗网上模仿秀事件》(收录了在互联网上发表的御手洗系列仿作22篇) 2000 21《帕罗塞宾馆—御手洗网上模仿秀事件2》 2001 22《石冈和己攻略本》 2001 23《哈里伍得证书》 2001 24《俄罗斯幽灵军舰事件》 2001 25《好莱坞凭证》(松崎玲王奈) 2001 26《魔神的游戏》 2002 27《御手洗·咖啡》 2002 28《圣尼古拉斯的钻石靴》 2002 29《上高地的开膛手杰克》 2003 (收录〈上高地的开膛手杰克〉与〈山手的幽灵〉) 30《螺丝人》 2003 31《龙卧亭幻想》 2004 32《摩天楼的怪人》 2005 33《犬坊里美的冒险》(犬坊里美) 2006 34《最后的一球》 2006 35《溺水的人鱼》 2006 (收录〈溺水人鱼〉、〈人鱼兵器〉、〈耳朵会发光的小孩〉和〈海与毒药〉) 36《UFO大道》 2006 (收录〈UFO大道〉、〈撑折伞的女人〉) 37《利比达自由寓言》 2007 (收录〈克罗地亚人的手〉、〈利比达自由寓言〉) 38《进进堂、世界一周》(正在执笔,关于御手洗的“京都时代风貌”之最新短篇集)39《伊根的龙神》(计划执笔,发生于瑞典的御手洗洁最新长篇)

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