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日语综合教程(五)

日语综合教程(五)
日语综合教程(五)

日语综合教程第五册目录

第1课海の中に母がいる

第2课田中正造

第3课日常の思想

第4课庭

第5课木の葉の鱼

第6课をせ車輪動物カミしヘをしヘのか

第7课紅山桉

第8课蘭

第9课『的』の文化

第10课屋根の上のサヮン

第11课こ島見けンとかぅ

第12课歲時記

第一课海の中に母がいる

山好きの血が父方から流れているとすると、海好きは間違いなく母から伝わっている。終戦間もなく、しのば

ずのいけ不忍池のほとりを通りかかると、池の端に、母がしゃがみ込んで池の面をじっと見ている。声をかけ

ると、母は照れたような顔で立ち上がり「ちょっと海が見たくなって」と言って笑った。

当時、東大のそばに住んでいたので、買い物のついでに不忍池で休んでいたのだろうが、そのときの母の言葉

が妙に忘れられない。小学六年の夏、母の故郷のかごしま鹿児島の辺鄙な漁村でひと月暮らしたことがある。

母の父は背の高い、こわい人で、そこでずっと医者をしていた。家から五十メートルほどで海に出る。桜島や

開聞岳の見える美しいはまべだった、母が海を見たいと言ったのはその故郷の浜辺のことを考えていたのかも

しれない。今なら二時間もかからない鹿児島は、その頃は夜行や連絡船で二日かかる遠い国だった。望郷の思

いに駆けられても当然だったような気がする。

海好きといっても、心ゆくまで海と親しんだのはその夏だけで、あとは学校から海水浴にゆく程度だった。お

そらく海と切りはなされた状態がかえって海への憧れを掻き立てたのだろう。大学を出る年、何としても海に

関係する職業につきたいと思い、日本郵船に入社できないか聞きに行った。対応に出た人事課長は「うちも、

ほかの会社と同じですよ。文学部出身では、どうもね」と気の毒がってくれた。船会社だから、全員が船に乗

れるものと勘違いしていたわけだ。

それでも、船に乗って、海を思いのたけ味わいたいと言う気持ちは、いっこうに衰えなかった。幸いフランス

にゆくことになり、留学生は船に乗るように、という指示があった。マルセイユまで三十三日の船旅――考え

ただけでも嬉しさで気が遠くなりそうだった。しかし仲間の留学生たちは、何でそんな無駄な旅をさせるのか、と不満顔だった。

私はひとり海の喜びを満喫するため、四等船室を選んだ。ここは季節労働者用の船室で、留学生が近寄らない

ばかりでなく、船底なので、海に近く、丸窓の外は青い波がすれすれにうねってる。海が荒れると、船員が鉄

の覆いで丸窓をふさぎにくる。ベッドは鉄パイプの二段棚にカンバスを張っただけ。飾りなど何もなく、牢獄

さながらだ。

しかし文明の居心地よさはつねに、大自然との直接の接触遮断しゃだんする。たとえば灼熱の紅海では、船底

は四十度を越え、甲板でも燃える暑さだ。もちろん一、二等船室は優雅に冷房されているが、それでは、コン

ラッドの描くこの熱帯の海という荒々しい野獣のようなものの実体に触れることはできない。限りなく強烈な、素肌ならすぐに火傷を起こす太陽の下でしか、紅海の目くるめく壮大さは味わえないのである。

私は朝、甲板で激しい海の風に吹かれながら飲む大カップのコーヒーに満足した。中国人、マレー人、インド

ネシ?人、ウェトナム人たちの喧噪のなかで、甲板に寝そべってヘミングウェイをよむのが、たまらなく嬉し

かった。舳先に立って風を受けていると、まるで大航海時代の冒険者になったような気がした。

東シナ海の冷酷な青い波、くらげの浮かぶボルネオ海の白緑色のねっとりした波、インド洋の壮麗な落日の下

で黄金色に砕けていた波、地中海の凄味を帯びた青黒い波――いずれも刻々に私のたましい魂を奪ってやまな

かった。朝から晩まで私は舷側からただ海の青さ、広さに見入っていた。

人間は愛するもののそばに長いいたいと思う。ただいるだけで幸せなのである。人が退屈するのは、ひたすら愛するものを失ったからではないだろうか。この大航海の間、私は自然の素晴らしさと同時に人生の過ごし方も学んでいたような気がする。

あれからもう三十年。今も海が恋しいとき、懐かしい三好達治の詩を読む。

「海よ、僕らの使ふ文字では、お前のなかに母がある。そして母よ、フランス人人の言葉では、あなたの中に海がある。」(フランス語の母はmere、海はmer)

第一课大海中有妈妈

如果说喜欢大山是继承了父亲的血统,那么爱好大海一定是从母亲那里传承下来的。那是战争结束后不久,恰好经过不忍池附近时,妈妈会在池塘边深深蹲下,两眼死死地盯着水面。假如我喊她,她的脸上似乎显得很难为情,站了起来,笑着说:“想看一会儿海呀!”

当时,因为住在东大附近,去买东西时就顺便在不忍池休息一下,不可思议的是,我一直没有忘记那时妈妈说的话。小学六年级的暑假,我曾去母亲的故乡,鹿儿岛上一个边远的渔村住了一个月。外公个子高高的,非常强壮,一直在那里行医。距家大约五十米处便是大海,从那景色秀丽的海滨,看得见樱岛和开闻火山。母亲说想看大海,我想也许就是那故乡的海滨吧。如是在今天,去鹿儿岛用不了两个小时,而在那时,那里是一个遥远的地方,需要坐夜间火车和联运船才能到。在思乡之情的驱使下,似乎妈妈那种举动是理所当然的。

虽说喜欢大海,但尽情与大海亲密相处也只有在那个暑假,后来仅达到了从学校去洗海水浴的程度。也许是因为与海隔绝的状态,反而激发起我对大海的憧憬吧。大学毕业的那年,不知为什么,想要寻找与大海有关系的职业,便去打听能不能在日本邮船公司工作。出来接待我的人事课长非常遗憾地说:“本公司与其他公司一样,对文学出身的大学生,一概不受。”我将船公司误认为全体职员都在船上工作了。

尽管如此,希望乘船,我对大海的痴情却有增无减。幸运的是,我即将去法国,根据指示,留学生将乘船前往。去马赛有三十三天的航程——想到这个,我高兴得几乎要晕过去,可是其他留学生们不知为什么对这样耗费时间的旅行却一脸的不高兴。

我为了一个人尽情玩味航海的喜悦,选择了四等舱的铺位,那是季节工人用的船舱,留学生从不靠近,不但如此,因为在船底,靠近大海,舷窗外蓝色的波涛近在咫尺,汹涌起伏。海上起风浪时,船员将蒙上铁皮的舷窗关死。所谓床位,是用铁管制成的两层架子上绑上帆布,室内什么装饰也没有,简直像牢狱一样。

但是,文明的舒适环境,常常隔断了我们与大自然的直接接触。如果说红海是炙热的话,我们所在的船底超过了四十度,而甲板上是火一样的酷暑。不用说,一、二等舱是优雅的,有冷气的房间。这就是康拉德所描写的热带海洋,是像粗暴的野兽一样的不可接触的实体。如果不是在那无比强烈的、光着膀子就马上会被烫伤的太阳底下,就无法体会到红海那令人眼昏目眩的宏伟景象。

早上,我被甲板上强烈的海风吹着,喝着大杯的咖啡,感到很满足。在中国人,马来西亚人,印度尼西亚人,越南人的嘈杂声中,我躺在甲板上读着海明威的书,开心得不得了。我站在船首迎着海风,觉得自己简直就像大航海时代的冒险家。

东印度支那海那冷酷无情的蓝色海浪,婆罗洲海那漂浮着水母的,淡绿色的,粘乎乎的波涛,印度洋那壮丽的落日底下荡漾着金色的碎波,还有地中海那带着可怕神情的蓝黑色的浪涛——不管我走到哪里,每时每刻都在震撼着我的灵魂,无法逃脱。从早到晚,我都站在船舷边,一刻不定地注视着那蔚蓝,广阔的大海。

我认为,人们只要长久呆在所爱的东西旁边,只要它存在就会感到幸福。人们感到无聊,是因为失去了一味宠爱的东西吧。在这次航海期间,我觉得自己见识了自然的美丽,同时学到了如何度过人生的方法。

从那以后,三十年过去了。现在,当我眷恋大海的时候,就读起令人怀念的三好达治的诗。

“大海啊,在我们使用的文字中,在您之中有妈妈。然而妈妈啊,在法国人的语言中,在您之中有海洋。”(法语中母亲是mere、海洋是mer)

第二课田中正造

一八九一年(明治二十四年)の十二月に二十五日、日本に国会が開設されて第二回目の議会でのことである。年齢は五十歳ぐらい、がっしりとした体つきの男が演壇に立ち、政府へに質問演説に熱弁とふるっていた。満場、きちんと洋服を着た議員ばかりなのに、其の男の身につけているのは、粗末な木綿の着物と袴。しかも、髪は乱れ放題で、気にかける様子は全くない。

彼は、かたわらの袋から、死んだ魚や立ち枯れ稲など、不気味なものを取り出しては、『足尾銅山の流す鉱毒

のため、渡良瀬川の流域では、これ、このとおり魚は死に、作物は枯れてしまう。政府は、直ちに銅山に命じ

て鉱石を掘ることをやめさせ、銅山の経営者は、農民たちの被害を償うべきであります。』

と叫ぶのだった。

この男の名は田中正造。正義と人道のために一身を捧げつくして、後に、『明治の義人』と呼ばれるようにな

った人物である。

関東地方の地図を開くと、栃木県の西北部、有名な中禅寺湖の近くに、足尾という銅山の在るのが分かる。江

戸時代にも鉱石が掘り出されでいたが、一八七七年(明治十年)にある実業者がこの銅山を買い取ってからは、鉱夫の数は三千人、年間四千百トン余りもの銅を産出するようになり、それとともに、鉱毒の害があらわにな

って出たのである。

雨が降ると、捨てた鉱石の滓から毒が染み出て、近くを流れる渡良瀬川は青白く濁り、何万匹もの魚が白い腹

を見せて浮き上がる、その近くの畑に植えた作物は、根から腐って枯れてしまう。そして、一八八七年(明治

二十年)ごろからは、渡良瀬川沿岸一帯の村々の田畑が不作となり、農民たちは貧苦の底に沈むようになった

のだった。

一八四一年(天保十二年)十一月三日、今の栃木県佐野市に生まれた田中正造は、元の名を兼三郎といったが、二十八歳の時、『人間にとって一番大切なのは、正しい生きることだ。人生五十年とすれば、わたしは、もう

その半ばを過ぎている。せめてこれから先は、正義を貫いていきたいものだ。』

と考えて、自ら『正造』と改名した。

そして、昼間学校へ通えない青少年のために夜学会を開いたり、『栃木新聞』という新聞を出して、民衆の権

利を出張し、郷土の人々の役に立つ記事を載せたりした。しかし、正造が正しいと信じることは、なかなか世

の中へ広まっていかない。そこで、正造は、一八八〇年(明治二十三年)には衆議院議員になって、自分の考

えを実際の政治の上に生かそうとしていたのだった。

そういう正造だから、今、足尾銅山の鉱毒に苦しむ農民たちを見て、黙っていることはできない。彼は、農民

の代表として、『山から銅を採って、日本の国を豊かにするのは、確かに大切なことでありましょう。だが、

そのために多くの農民を犠牲にすることは、絶対に許されませぬ。』と訴え、鉱毒問題と真剣に取り組み始め

たのである。

正造が、国会で火のような弁舌をふるって忠告したにもかかわらず、明治政府は、

『群馬*栃木の両県の田畑で作物が枯れたりしているのは事実だが、足尾銅山の鉱毒が原因かどうかは分からない。』と言って、問題を取り上げようとしなかった。

しかし、正造は、確かな証拠を持っていたのである。と言うのは、すでに前の年、正造と農民たちは、農科大

学(今の東京大学農学部)の古在由直助教授に頼んで、足尾銅山の鉱石の滓と被害地の土*水の調査をしてもらっていた。その結果が、正造たちの予期していたとおりだったのである。足尾銅山から流れ出る水は、銅、鉄

分及び硫酸をおびただしく含んでおり、動植物が死んだり枯れたりするのはそのせいであるというのだ。

そこで正造は、翌年五月に開かれた第三議会で再び演壇に立ち、動かぬ証拠を示して言葉鋭く政府に迫った。

科学的な調査の結果を見せられては、政府も足尾銅山の鉱毒を認めないわけにはいかない。政府は、銅山を経

営する会社に注意を促し、会社はようやく粉鉱採集機というものを備え付けて、鉱石の細かな滓が散らばらな

いよう処置したのである。

『もう大丈夫。これも、田中のとっさまのおかげです。』

農民たちはそう言って喜び、稲も麦も豊かに実ってくれるものと期待したのであった。

だが、農民たちのその期待は失望におわった。粉鉱採集機もさっぱり効き目がなく、二年たっても、三年たっ

ても、渡良瀬川の魚の死ぬのはやまないし、作物もはかばかしくは実らない。いや、それどころか、鉱毒の害

はますますひどくなっていくのだ。

そして、鉱山拡大のため山の木を切り過ぎたことも祟って、一八九六年(明治二十九年)の秋、大雨のため渡

良瀬川の堤防が切れると、鉱毒で汚れた水は、たちたち沿岸八十八の村々を襲う、目も当てられぬ有様となっ

たのである。

正造はまたしても議会の演壇に立ち、『足尾銅山の採鉱を停止すること、それ以外に村々を救う道はありま

せぬ。』と叫ぶのだった。

正造の言うとおり採鉱をやめれば、確かに鉱害はなくなるだろう。しかし、銅の産出量が少なくなれば、その

分だけ日本の国力も弱くなる。そこで、政府は銅山側に命令して、二十か所に鉱毒沈殿地と鉱毒濾過池を造ら

せたのである。銅山側は、『これで、二度と鉱害は起こりません。』

と明言し、農民たちもようやく胸を撫で下ろした。

ところが、一八九八年(明治三十一年)の九月のこと、降りしきる雨に、沈殿地と濾過池の堤防脆くも崩れた。そして、たまりにたまっていた鉱毒は、いちどきに渡良瀬川へ流れこみ、またたく間に、沿岸の田畑数万町歩

を覆ってしまったのである。これでは、もう半永久的に作物は実らないだろう。

思い余った農民たちは、九月二十六日の夜更け前、蓑笠と新しいわらじに身と固め、渡良瀬川中流の渡瀬村に

ある雲龍寺の境内に集まった。その数はおよそ一万人。彼らは、生きるために、大挙して東京へ押し出し、足

尾銅山の経営者と政府とに直接かけ合おうというのである。

やがで、東の空が白むころ、農民たちの大群は南へ南へと動き始めた。これに気付いた警察は、農民たちを東

京へ入れまいとして、あちこちの橋を壊して回る。そこで、農民たちが船で川を渡ろうとすると、警察はサー

ベルを引き抜いて、あくまでも農民たちを追い返そうとし、多くの犠牲者が出たのだった。

このとき正造は東京におり、風邪を引いて宿屋の一室で寝ていたが、知らせを聞くとはね起きた。そして、人

力車をひた走りに走らせ、埼玉県境の淵江村で農民たちに行き会うと、『皆様、待ってくだされ。この正造の

言うことを聞いてくだされ。』と、両手を広げて押しとめた。それから、声を振り絞って、

『この田中正造、皆様の煮えくり返る胸の内、ようく知って下ります。しかしながら、皆様、これだけの人数

で帝都へ押しかけるのは穏やかでありませぬし、犠牲者をこれ以上増やしてもなりませぬ。この日本は、法治

国家であります。われわれの希望や要求は、あくまでも議会を通して、平和のうちに実現させなくてはなりま

せぬ。』

正造の真心からの言葉を聞くと、農民たちはみな、ほこりまみれの顔をぬらして男泣きに泣いた。そうして、

胸の奥で正造を拝みながら、『わしらは、田中のとっさまを信じております。お言葉どおりにいたしましょう。』と、五十名の代表を残して、あとの者はおとなしく村々へ帰って言ったのである。

それからというもの、正造は農民たちの信頼に応じえようと、昼も夜もなく動いた。議会では今夜食べる物も

ない農民たちの惨めさを涙ながらに話し、町では鉱毒問題演説会を開いて、鉱毒地に目を注いでくれるよう

人々に訴えた。

鉱毒地を救おうという運動は野火のように広がった。人々は鉱毒地の農民に同情を寄せ、村々を視察したり、

お金や衣類などを寄付したりした。

けれども、鉱毒のおそろしさは実際に被害を受けたものでなくては、本当には分からない。農民たちはその後

も東京へ押し出したが、犠牲者を出しただけで終わり、年月とともに世間は鉱毒問題を少しずつ忘れていった。そして、ついには、

『足尾銅山の鉱毒問題かね。あれは、田中正造が選挙の票稼ぎを狙って、一人騒いているだけさ。』

と言うようにまでなってしまったのである。

正造の心は重かった。一身や党派の利害をはなれて、ひたすら正義のために働いているというのに、世間では

選挙運動としか思ってくれないのだ。しかも、鉱毒地の農民たちの生活は年ごとに苦しくなり、芋粥も啜れな

い家や、困り果てた末、家族が散り散りになる家さえも出てきているのである。

苦しみのため、額に深いしわが刻まれ、ひげの真っ白に変わった正造には、腕を組んで考え込む日々が続

いた。そして、一九〇一年(明治三十四年)の秋になって、正造は何事か決心をしたらしく、衆議院に辞表を

出して議員をやめたのである。

正造がなんのためにそんなことをしたのかは、その年の十二月十日、第十六議会の開院式の当日明らかになった。

その日の午前十一時二十分、開院式に臨んだ明治天皇の馬車が、車輪の音もかろやかに、貴族院議長官舎前の

道を左へ曲がったときである。道の両側に居並ぶ人々の間から、黒い木綿の羽織袴に、足袋跣足の老人が、髪

を振り乱し、一通の大きな封書を片手に捧げ持って、『―-―陛下にお願いがございます。お願いがございます。』と叫びながら走り出た。

馬車のわきを守っていた騎兵が、槍を煌めかして老人を遮ろうとしたが、弾みで馬がどうと倒れる。と、ほと

んど同時に、その老人――田中正造も足がもつれて前に転び、そこへ警官が二人走りよって正造を押さえ付け

てしまったのである。

正造は天皇への直訴を決行したのだった。彼の捧げ持っていた封書は、天皇に当てた直訴状で、足尾銅山の鉱

毒で荒れ果てた村々の有様と農民たちの苦しみが、こまごまと記されていた。

正造は不敬罪で捕らえられて、監獄につながれるのはもちろんのこと、裁判次第では、死刑にされるかもしれ

ないと覚悟していた。彼は自分が身を捨てることによって、政府や社会が鉱毒問題に真剣に取り組むようにな

ればよいと考えて、直訴を決行したのである。

それなのに、正造は警察にたった一晩とめられただけで、翌日は宿屋へ帰された。彼の身を気づかって集まっ

ていた人々に、正造が苦笑いとともにもらしたのは、『役人のやつら、この正造を狂人にしてしまいおった。』という一言であった。

その言葉どおり、政府は、正造を不敬罪で裁判にかける代わりに、狂人としてあつかったのである。狂人が発

作を起こして、たまたま天皇の馬車の前へ走り出ただけのことで、まじめに採り上げるようなことではない

――政府は、人々にそう思わせようとしたのだった。

正造の狙いは、ものの見事の外されてしまったわけだ。けれども、新聞や雑誌がこの事件を書き立てたので、

正造の真意は広く伝わり、政府は足尾銅山の鉱害を見過ごしているのは怪しからんとする世論が、次第に強く

なってきたのである。

そうなると、政府は、渡良瀬川と利根川の合流点に近い谷中村を、大きな遊水地にするという計画を発表した。鉱毒の広がるのは渡良瀬川の洪水によってのことだから、大きな遊水地を造って洪水を防げば、鉱毒も広がら

ないだろうというのだ。そして、政府は、谷中村の村民に金を与えて無理に立て退かせ、計画どおり遊水地の

工事を始めたのである。

正造は、荒れ果てた谷中村の跡に立って、『政府は間違っている。やるべきことは、谷中村を犠牲にして鉱害

の範囲を小さくすることではない。足尾銅山の採鉱を停止させ、鉱害が絶対に起こらぬ整備を作らせることだ。』と白い髭を振るわせて怒り続けた。

それからの正造は、鉱毒を完全に防止できる整備が完成するまで足尾銅山の採鉱を停止させ、滅びた谷中村を

元どおりにしようとする運動に、残っている力のすべてを注いだ。

国会議員をやめてしまった正造には、もはや国会で訴える術はない。やむを得ず、正造は、老いて疲れた体を

ひきずっては、著名な政治家や、知り合いだった議員を一人一人訪ねて、鉱毒問題を国会で取り上げてくれる

ように頼んで回った。昨日は西へ、今日は東へと走り回る正造には、たまたま自分の家の前を通っても、立ち

寄っている暇さえなかった。

だが、正造がけんめいになればなるほど、政治家たちは彼を避けようとした。彼らは、自分の利益にならない

面倒な問題には、関係を持ちたくなかったのである。

それでもなお、正造は諦めなかった。そして、運動に熱中するあまり、前よりもいっそう身なりを構うゆとり

がなくなって、あるときなど、初めて立ち寄った宿屋で、『じいさん、うちでは泊められないよ。』と、断ら

れたことさえあったという。

こうして、二十年間も足尾銅山の鉱毒と戦い、疲れ果てた正造は、一九一三年(大正二年)の八月二日、立ち

寄った栃木県吾妻村の農家で急に倒れた。そして、心配して集まってきた人々に、正造は、『わしの命を気づ

かう代わりに、みんなが心を一つにして、鉱毒をなくす運動を盛ん上げてくれ。この荒れ果てた渡良瀬川の流

域に、一本でも多く木を植えてくれ。』と遺言すると、およそ一か月後の九月四日、永遠に瞼を閉めじたので

ある。このとき、正造は七十一歳。その名前のとおり正直で、一身の利益や名譽を顧みることなく、正義のため、人道のため、何者をも恐れず戦いぬいてついに倒れた、壮烈な生涯であった。

死後に残された正造の持ち物といっては、菅笠と小さな頭陀袋だけで、そのほかには何一つない。翌晩、身寄

りの者が集まってその頭陀袋を開けてみると、入っていた物は、聖書一冊と日記が三冊、それに鼻紙が少しだ

けであった。

第三课日常の思想

余暇というものをどう考えたらよいかいう問題について、哲学的考察をセよというのが新聞社が私に与えた課

題である。余暇の問題は、漸次重要な問題になってゆく。なぜなら、科学技術の発展と共に、生産力は向上し、人間の労働時間が短縮するのは、資本主義国と社会主義国とを問わず、科学技術を採用している現代の文明の

たどる必然の方向であるからである。むしろこのことはよいことなのである。なぜなら人間が、衣食の心配か

ら解放されて、自由な時間をもつことは、何よりも人間にとって望ましいことだからである。

かつて人類にとって、自由な時間は、ぜいたく以外の何物でもなかった。なぜなら、人類の大多数が、生存を

維持するために労働を余儀なくされているとき、そのような労働に従事しない人間は、それだけで、罪を背負

っていたからである。したがって、自由な精神的仕事に従事する宗教家は、自ら物質欲と性欲をたった。つま

り禁欲を自由な精神生活の代価として支払ったのである。ここでは、閑暇は全く少数の例外者にのみ許された

特権であった。もとより人類は、今までこのような労働中心主義的価値観に生きたが、特にこのような価値観

を強くもっているのは明治以後であると思う。徳川時代においては労働と同時に遊びの価値を評価する視点が

まだあった。

しかし明治以後日本が西洋文明の採用に踏み切るや否や、日本人は全く労働を唯一の価値とする一元的価値観

をもった。なぜなら、日本人が、日本あるいは東洋の文明がヨーロッパ文明に、とうていかなわないと判断し

たのは、ヨーロッパ文明がより強い軍事力と共に、より高い生産力をもつということを洞察したゆえであった。ここで日本人の洞察は、あやまってはいない。ヨーロッパの科学文明は、その技術によって生産力を高めよう

とすることを、その文明の原理とする文明であるから。

日本は、ヨーロッパ諸国の軍事力の圧力の前に到底匹敵しがたい自己を感じると共に、ヨーロッパの科学技術

文明の生み出す生産力におどろいたのである。ヨーロッパ文明を移入して、強く豊かな国を作れ、それが過去

百年の間の日本の目標であった。こういう目標の中に自己を集中させた日本は、従って、ヨーロッパよりはる

かにヨーロッパ的な技術文明を生んだ国、ヨーロッパ諸国より、はるかに技術文明に価値をおく国となった。

そういうことは、しばしば文化的後進国に起こることである。科学技術文明は、ヨーロッパにおいて、伝統的

な精神文明、特にキリスト教文明との調和の中にあった。しかし日本や?メリカやロシ?のように、おくれて

技術文明を採用しようとする国において、このような調和は問題ではなく、技術文明だけが性急に移入された

のである。

このような文明の中にあった明治百年の日本において、三つの価値が、価値の王座に君臨した。一つは勤勉。

勤勉は、生産力の向上には、欠くべからざる徳である。しかも、おくれてヨーロッパ文明を採用した日本にお

いて、勤勉は二重に重視される。私は明治百年の日本人の第一の徳は、やはり勤勉ではなかったかと思う。小

学校の庭に二宮尊徳の銅像がつくられる。しかもその像は、たきぎを背負い勉強している像である。かつて多

くの像を日本人は尊敬したが、この像ほど、ミミッチイ像はない。一分の寸暇をおしんで働いている。余裕が

ちっともないのである。働け、働け、さらば救われん、そのような宗教が、明治百年の日本人の宗教であった。二宮尊徳の銅像は、悲しいまでにいじましいわれわれの自画像なのである。

勤勉の徳によって、われわれが期待するのは、繁栄である。繁栄が明治百年の日本の大事な目標であった。そ

してその繁栄というのは、物質の豊かさを意味する。しかも近代人にとって物質は、単なる自然物ではない。

多くの人間の意思によって作られた物質なのである。今日、われらの周囲にある物質は、ほとんど自然のもの

ではない。われらが今日価値をおく物質、テレビ、電機製品、自動車、すべて、われらの意思がつくり出し、

われわれに奉仕する物質なのである。ここでは、人為的なものが、自然なものより喜ばれる。

このような勤勉、繁栄の価値とならんで、近代人にとって大きな価値は進歩である。だんだんこの世の中がよ

くなってゆく。物質は豊かになり、人間の知恵は増進してゆき、世の中はだんだん住みやすくなる。それが、

近代人の信念というより、信仰でもあった。それゆえ、ここでは変化することが価値であり、スピードが価値

であった。変化することが価値であるならば、否定が価値であり、どこへという問いもなく、ただスピードを

出すことのみが価値とされるのである。

私は過去百年間、日本人をささえた価値観は、そういう勤勉――繁栄――進歩という価値観であったと思う。

このような価値観は、日本人全体の価値観であり、右と左とを問わないのである。むしろ進歩政党ほど、強く

このような価値観の上に立っている。しかしこのような価値観は、現在、大いに動揺している。むしろ、この

ような価値観の上に育った文明そのものが、このような価値観に対して懐疑を投げるのである。

今日、完全に機械の時代である。多くの単純労働において、機械は人間より、はるか多くの能力を発揮するこ

とは、すでに十九世紀において明らかになった。そしてやがて複雑な労働すら、機械は人間にかわってするこ

とが出来るようになった。そして最後に、頭脳労働においてすら機械は、人間に優るようになった。勤勉は唯

一絶対の価値であることを失うのである。

なぜなら汗水たらした労働より、むしろゆとりをもった自由な思惟が、技術の発明に好都合であることが多い

からである。機械は人間よりはるかに勤勉ですらある。かくして、勤勉は、価値の王座からおちる。それと共に、繁栄ももはや価値の王座に、君臨することがてきない。なぜなら、繁栄は、現在、先進的資本主義国には

ほぼ実現されはじめた価値であるからである。もちろん物質的繁栄には限りがないが、今、物質は先進国にお

いて、そろそろ過剰になりはじめているのである。しかもその繁栄には、自然が犠牲に供されるのである。つ

まり自然を自己の意思によって征服することが、ここで繁栄の条件であるが、このように、人為により痛めつ

けられた自然が、人間に復習をしないかどうかが問題である。

今日、自然は、その調和を乱しつつある。緑の山野は、一面に枯れ山となり、清流は濁流となり、野生の獣は

もちろん鳥や魚も一日一日少なくなる。大都会のコンクリートの中にあって、人間が果たして生きることが出

来るかどうかは、はなはだ疑問である。公害の問題は、そういう自然破壊の一つの現れであろうが、病はもっ

と根本的なところんいある。このような繁栄と自然征服という価値がゆらぎはじめてきているのである。

そして最後に進歩も文明の目標ではなくなる。進歩の思想において、未来は現在よりよくなるという観念がある。ここでは現在は現在として価値あるのではない。むしろ現在は、未来のために是認されるのである。こう

いう人生観のみが価値をもつとき、われたは、父や母より価値あるが、われたの子はわれたより価値があると

いうことになる。じじつそういう信念によって、進歩的な学生諸君は、父母や教師や大学を否定した。

しかし、今日この勤勉―繁栄―進歩の価値観が急速にくずれていく。代わって遊び―自然―自由の価値観が、

価値として登場してくる。ヒッピーの思想は、こういう新しい時代のはしりである。そこでは、一切の労働か

らはなれ、自由で、自然に帰った生活を送ることが、人間の理想となる。こういうヒッピー族が技術文明の先

進国である?メリカにおいてもっとも多く出ていることに注意したい。

このような遊びの問題について今後、この連載で他の論者によって論じられるであろうが、私は一言だけ言っ

ておきたい。勤勉―繁栄―進歩の価値観は崩壊しようとしている。それに代わって、遊び―自然―自由が、新

しい価値観として立てられようとしているとしても、なおそのような価値観は人類を長い間ささえる価値観と

ならないであろう。なぜならいったん、文明の木の実を食べた人間は、再び、非文明へ逆転することは出来な

いからである。対立する二つの価値観を調和する点を発見すること、そのへんに新しい文明の原理は見つけ出

されると私は思う。

(『日常の思想』集英社より)

关于作者:梅原猛,生于1925年,京都大学文学部哲学科毕业。立命馆大学教授,京都市立艺术大学教授。曾任国际日本文化研究中心代所长,现为京都市立艺术大学名誉教授、国际日本文化研究中心顾问。1972年获每日出版文化奖,1974年获第一届大仏次郎奖,1992年获文化功劳者表彰。主要著作有《地狱的

思想日本精神的一系谱》、《隐藏的十字架法隆寺论》、《水底的歌柿本人论》等。

课文翻译:

关于闲暇应该怎么看?用哲学的考察来回答这个问题,是报社交给我的一个课题。闲暇问题将逐渐变成

我们社会的重要问题,这是因为随着科学技术的发展,生产力的提高,人们劳动时间的缩短,不管是资本主

义国家还是社会主义国家,都正在采用科学技术,这是现代文明所追寻的必然方向。不用说这是一件大好事,因为对人类来说,没有什么比让自己从衣食之忧中解放出来,拥有自由的时间更为理想的了。

从前,自由时间对人类来说堪称奢侈之物,除此之外它什么也不是。这是因为,当人类的大多数为了维

持生存而不得不从事劳动时,那些无须从事这样劳动的人便因此而背负了罪名。因此,从事自由的精神工作

的宗教家,只能自我断绝了对物质的欲望与性欲。也就是说,他们为了自由的精神生活而付出了禁欲的代价。在这里,闲暇完全是少数佼佼者才可能被允许的特权。我认为,人类原本一直生存在这种以劳动为中心的价

值观中,尤其是这样的价值观为近代西方文明所强力推崇,而日本人则是在明治维新之后,才彻底拥有这样

的价值观。在德川时代,对既劳动也玩乐的价值,还曾有过予以肯定评价的观点。

但自从明治维新之后,当日本在下决心是否采用西方文明时,日本人就完全树立了以劳动为唯一价值的

一元价值观。这是因为,日本人之所以判断日本或者东方文明无论如何也比不上欧洲文明,是因为他们(还)洞察到,欧洲文明在拥有更强大的军事力量的同时,还拥有更高的生产力。在这里,日本人的洞察是不错的,欧洲的科学文明,是一种通过技术提高生产力,并将其作为文明原理的文明。

日本在欧洲诸国的军事压力下,感到自己到底无法与之匹敌,对欧洲的科学技术文明所产生的巨大生产

力感到无比震惊。引进欧洲文明,建设强大富裕的国家,这就是过去百年间日本的目标。将自己全力倾注于

这一目标的日本,从而成为一个比欧洲更加欧洲化的技术文明的国家,成为一个比欧洲诸国更加推崇技术文

明价值的国家。在欧洲,科学技术文明存在于与传统的精神文明,特别是基督教文明的协调之中。可是在日本、美国和俄国这样技术文明被采用得较晚的国家,这样的协调并没有被当成问题,只要是技术文明,就被

急吼吼地引进。

在明治百年的文明之中,有三个价值占据着价值的宝座。一个是勤劳。勤劳是提高生产力不可或缺的品德。因而,在较晚采用欧洲文明的日本,勤劳受到加倍的重视。我认为,明治百年日本人最重要的品德,非

勤劳莫属。在小学校的校园里,建有二宫尊德的铜像,而且这座塑像表现的是背负着柴火去上学的形象。过

去许多塑像曾被日本人所尊崇,不过像这样用来表现珍惜点滴时间的塑像还不曾有过。他分秒必争地劳动着,一点空闲也没有。干活,干活,只有这样才能得到拯救,这样的宗教就是明治百年日本人的宗教。二宫尊德

的铜像,正是可怜可悲到极点的我们日本人的自画像。

通过勤劳的品德,我们所期待的是繁荣。繁荣是明治百年日本人的重要目标。因而繁荣也意味着物质的

丰富。而且对近代人来说,物质不仅仅是自然物质,还是根据许多人的意志创造出来的物质。今天我们身边

的物质几乎都不是自然的物质,我们认为有价值的物质,如电视机、电器产品、汽车,全都是根据我们的意

志造出来的为我们服务的物质。在这里,人为的东西比自然的东西更受人欢迎。

与这样的勤劳、繁荣的价值可以相提并论的,对近代人来说,伟大的价值在于进步。这个世界正逐渐朝好的

方向发展,物质变得丰富了,人的智慧日益增进,在这个世界上生存变得更容易了。这与其说是近代人的信念,不如说是信仰。所以,在这里发生了变化的是价值,而速度就是价值。如果说发生了变化的东西是价值

的话,那么否定也是价值,不用问去哪里,只要加快速度,就被当作价值。

我认为在过去的百年期间,支撑着日本人的价值观,就是所谓勤劳——繁荣——进步的价值观。这样的

价值观,是全体日本人的价值观,不用问是左派还是右派。越是进步的政党,就越是建立在这样的价值观的

基础上。可是这样的价值观,如今已发生了很大的动摇。毋宁说是在这样的价值观基础上哺育起来的文明本身,对这样的价值观提出了怀疑。

如今的时代,完全是机械化的时代。在繁多的单纯劳动中,机械比人发挥的能力要多得多,这一点在十

九世纪就已经变得很明显了,不久之后,甚至连复杂的劳动似乎也能够用机械来代替人了,而且到了最后,

甚至在脑力劳动方面机械也胜过了人。勤劳便失去了它那唯一绝对的价值。

因为,比起付出汗水的劳动,毋宁说富有余地的自由思维对技术发明更为合适,好处多多。机械甚至比

人更为勤劳,这样一来,勤劳便从它那价值的王冠上跌落下来,与其并起并坐的繁荣再也不能在价值的宝座

上称王称霸了。因为在如今先进的资本主义国家中,繁荣已经实现了它那最初的价值。当然,物质的繁荣是

永无止境的,目前在先进国家,物质正在开始渐渐变得过剩,而且这种繁荣是以牺牲自然环境为代价的。也

就是说,根据人类自己的意愿征服自然,在这里成了繁荣的条件。这样的话,遭到人为的严重打击的自然,

是否会对人类进行报复,这是问题所在。

如今,大自然的协调正在被搅乱,绿色的山野变成了一片秃山,清流变成了浊流,不用说野生兽类,就

连鸟和鱼也一天天减少了。在大城市的水泥世界中,人类果真能生存下去吗?这是个很大的疑问。公害问题

也许是破坏大自然的一种表现,而其病因在于更深层次的地方。这样的繁荣与征服大自然的价值正在开始动摇。

而且到了最后,进步也不再成为文明的目标了。在进步的思想中,有未来比现在更好的观念。在此,与

其说现在不是作为现在而具有价值,不如说现在是为了未来而被认可的。只有在这样的人生观具有价值的时候,我们才会比父母更有价值,而我们的孩子会比我们更有价值。事实上,根据这样的信念,各位进步学生

才否定了父母,否定了教师,也否定了大学。

可是,当今这种勤劳——繁荣——进步的价值观正在迅速走向崩溃,取而代之的是游玩——自然——自

由的价值观,作为价值所在而粉墨登场。嬉皮士思想就是这样的新时代先锋。在那里,脱离了所有的劳动,

过着自由而回归大自然的生活,成为人类的理想。想要提起注意的是,这样的嬉皮士最多出自于美国这样技

术文明先进的国家。

关于这样的游玩问题,今后也许会在这个连载中被其他评论员所论及,对此我只想说几句话。勤劳——繁荣——进步的价值观正面临崩溃,取而代之的是游玩——自然——自由作为新的价值观将被树立起来,不过这

样的价值观恐怕仍然不能成为长期支撑人类的价值观。因为一旦尝过文明之果的人类,再也不会回到文明前

的社会中去。我认为,一旦发现对立的两种价值观的调和点,就能在那里找到新的文明原理。

(摘自集英社《日常的思想》)

第四課庭

庭というものは住まいの外にありながら、室内の雰囲気に少なからぬ影響を与える住まいの装置である。たと

えば居間などに座って何気なく外に視線を投げるとき、そこにあるのが明るい芝生の広がりであるか、こんも

りとした松の茂みであるであろう。ぼくは親の庭先に家を建てて住んでいるので自分の庭と言えるものを持た

ないのだが、それでも窓辺の食卓から父母の庭を望むことが出来る。この庭は“庭園”風に整えられてはいない

雑木はかりの広がりだが、それがかえって四季折々の移り変わりを鋭敏に映し出すことになって好ましく感じ

られ、春先にヒョロリとした梅が思いもかけぬ片隅を小さく彩ったり、枯木立が冬の入り陽をちぢに裂いたり

するのを眺めやることで、ささくれ立った気分が和む思いをすることが多い。

庭を眺めるという一見目立たない行為は、ぼくを含む日本人の日常生活の流れの中で意外に重要な一種の節目

になっているらしい。たとえば山口瞳の哀切きわまりない私小説集『庭の砂場』の中の同名の短編はその典型

的な例の一つであろう。この小説は次のように書き出される。

「今年の梅雨は殊更に長く感じられた。三月にも四月にも雨が多かったせいだろう。私は陰鬱な気分で暮らし

ていた。梅雨時は必ずしも嫌いではなかった。それは繁った樹木のせいだ。青葉の繁った樹木に雨が降りかか

るのを見るのは好い気持ちのものだった。紫陽花は好きだし、紫式部の薄いピンクの花が咲くのもいい。

私は樹木が間近に見える居間の長椅子に坐って庭に降る雨を見ていた。そうしていると気分が沈んでくる。……」

作者の分身である主人公は、こうして庭を眺めているうちに最近次々と亡くなった肉親たちに思いを馳せ

ていく。つまり気分がますます沈みこんでいくわけで、これは先に述べた「気分が和む」のとは逆のように思

えるかもしれないが、実は、普段は押し殺していた感情が庭の眺めに誘い出され、一種の放電を起こすことに

よって抑圧が解消されるのだから、本質的には「和む」のと同じ現象である。そのことは、ひとしきり死者を

思った後に風呂場で頭を洗っている主人公が、葬式では決して泣かなかった自分が涙を流していることに気づく、という結末によっても明らかだ。

思うに庭の大きな効用の一つは、このような治癒効果にあるのではないだろうか。そのために最低限必要

なのは、住まいに接して、とくに美しいものや素晴らしい眺めではなくとも、視線を受けとめてくれるに足る

私的に囲われた自然の断片が存在することである。それを見て心が和むのは、自然の営みというものが、いか

に断片であっても、人間の日常生活の偶発的な喜怒哀楽と独立したリズムを持って動いており、ぼくたちはそ

のリズムを感じとることで自分の感情をなにがしか相対化できるからではないか。つまりこの場合、視線を受

けとめてくれるということは感情を受けとめてくれるというのにほぼ等しい。

もちろん、こうした効用は庭の外に遠望する風景や公共緑地にもないことはない。しかし、ここが微妙な

とことで、私的領域である庭とその外とではどうも効きめが違うようだ。それはたぶん、感情を託す側の意識

がおのずから異なるからだろう。外の対象に投げかけることによって結果的に治癒する感情の波というものは、たいてい、とりたてて深刻なものとは限らぬにせよ、当の本人にとっては他人に知られずに秘めておきたい、

高度にプライベートな類のものである。だから、そうした感情の放電を自分に許すためには、人間は他人の干

渉をあたう限り免れた、心理的に安全に保護された境地にいる必要がある。そうなると自分のいる場所も、感

情を託す対象も私的領域の内にあるほうが有利なので、自宅の庭を眺めている状態が一番適していることになる。不思議なもので、庭の外の草木に感情を託してもそうたやすく他人に悟られるわけはないのだが、人里離

れた一軒家の周囲の大自然ならともかく、公園の緑や街路樹が相手では感情を放電するのがちょっと恥ずかしい、というのが、人間の、少なくとも都会人の一般的心理であるらしい。

庭は雑木林風にさり気ないのがいい、と思っているせいで、ぼくは庭つくりを任された場合でも樹木の種

類を細かく指定したりはしないのだが、そういう、おおざっぱさの中でやや強く執着するのは、室内から見わ

たせるほど良い位置、とくに日常生活の中心になる居間、食堂の前に落葉樹の大木を配することである。これ

は樹種は問わぬにしても、その姿には注文を付け、可能ならば実物を見て選定する。ぼくの理想は太い幹が人

の背丈ぐらいまでスッと伸び、そこから上に枝の広がりを持つ木である。もっとも予算の制約でこうした思い

が叶わず、サイズが不十分なものを将来の生長に期待して植えることもある。

この一本の木への執着は、一つには季節に応じて身づくろいを変える落葉樹が、前に記したような、庭の

精神的治癒効果に不可欠な自然のリズムを最も象徴的に映し出すからだ。落葉樹は夏に暑い茂みで涼しい木陰

をつくり、冬には葉をふるい落として陽光を透過させる。言うまでもなく、春の木の芽どきや、秋に色づく葉

には、その時々の眺めがある。しかしそれと並んで重要なもう一つの理由は、大きな落葉樹は室内気候にも優

れた影響を及ぼすことである。落葉樹の季節変化は当然、その樹に面する部屋の陽当たりを自然の営みによっ

て実に具合よく調整することにもなるのだ。

ぼくはこの落葉樹の恩恵を自分の家で年々実感しつづけている。両親の家の庭先に南北に細長く建ってい

るわが家は南端がほとんど敷地境界に接し、その面に庭を持たないのだが、さいわい隣地は公園で、その落葉

樹の木立ちが陽当たり調整効果をもたらしてくれる。夏はうっそうと茂る葉が室内を緑の反映でほの暗く満たし、冬は枯れ枝を透かしてくる低い陽射しが奥までさしこんで、晴れた日の昼過ぎまでは暖房も要らないほど

暖かい。

ここまで記して出たように、庭に四季の反映を強く求め、それを「眺める」ことに庭の最大の意義を見出

すのは、どうも日本人特有の庭園観であるようだ。いかに私的に囲われていようと、また人の手が加えられて

いようと、日本人が庭に求めるのは自然のミニチュ?であり、その自然志向は石を山に、砂を水に見立てた枯

山水のような屈折した操作を含む庭まで一貫している。これは結局、自然を克服すべき対象としてではなく、

親和的な環境としてとらえる日本人自然観に由来するもので、むろんぼくの雑木林好みもその影響下にあると

言えるだろう。

(『住まい方の演出』中央公論社より。一部削除あり)

第四课庭院

所谓庭院,就是建在住宅的外面,给予室内的氛围很大影响的住宅设施。比如说在起居室等地方坐下,无意中将视线

投向外面的时候,那里有开阔明亮的草地,长着茂盛树叶的松树,这样住宅的氛围就相当不一样了吧。我在父母的庭

院前面盖了房子住着,如果说自己的庭院嘛,我还没有,不过我在窗户边的饭桌上能看到父母的庭院。这个庭院不是

按照“庭园”的样子打理的,院内只有些杂树,非常宽阔,那样反而可以将四季应时的变化敏锐地显示出来,给人以

惊喜的感觉。早春纤弱的梅花出人意料地在角落里开了一小片,放眼望去,树叶落尽的树木将冬天的夕阳撕成千万片,于是许多情况下,原来暴躁的心情变得平和了。

在庭院中瞭望,咋一看是并不引人注目的行为,似乎成了包括我在内的日本人在日常生活中格外重要的一种节目。比

如说,在山口瞳的悲哀无穷尽的小说集《庭院中的沙场》中的同名短篇小说,就是这样的一个典型例子。该小说中有

以下的描述:

“今年的梅雨感到特别长,是因为三月和四月的雨特别多吧。我在忧郁的气氛中生活着,虽然是梅雨季节,却未必感

到讨厌,这是茂密的树木的缘故吧。在长满绿叶的树木中,看着雨降下来,保持了良好心情。我喜欢紫阳花,紫式部

那淡红色的花也开了,真好!

我在起居室的长椅子上坐了下来,那里能就近看见树木,看着庭院里下雨,这样呆着心情感到很郁闷……”

作为作者分身的主人翁,这样眺望着庭院时,神情驰骋,想起了最近死去的亲人们。也就是说,是因为心情越来越消

沉的缘故,这也许就是与前面所说的“心情平和”相反的想法吧。实际上,平常压制下去的感情,在眺望庭院时被引

诱了出来,根据一种放电现象,将压抑消解了,本质上是同“平和”相同的现象。这件事情,在思念一会儿死者之后,到浴池去洗头的主人翁,觉察到自己在葬礼上决不流泪,而在现在却流泪不止,这样结果就清楚了。

庭院对感情的巨大作用,也许就是具有这样的治疗效果吧。为了达到这个目的,最低限度的必要条件是与住宅相连接,如果没有特别美丽的风景与极好的瞭望条件,那么在视线被遮挡的情况下,必须存在足够将私人氛围围绕起来的自然

片断。看到这一切,心里感到平和,那都是自然的造化,无论是怎样的片断,它们与人们日常生活中偶发的喜怒哀乐

保持着独立的节奏运动着,我们如果感受到了这种节奏,那么自己的感情不就可以与无论什么都相对化了吗?也就是

说在这种场合,视线受到阻挡与感情受到阻挡大致是相同的。

毋庸置疑,这样的功能在庭院外瞭望风景和公共绿地是做不到的。但是,这里的微妙之处是,作为私人领域的庭院和

这以外的场所效果是不同的。这也许是因为我们托付感情一方的意识是各不相同的吧。根据投向外面的对象,结果感

情波涛得到治疗的案例,尽管大部分提升了的深刻的感情是无限的,但作为当事人,想要保留他人所不知道的秘密,

是高度私密的一类感情。因此,为了允许自己这样的感情放电,人们就避免了他人可能的干涉,有必要保留这样一片

保护心理安全的境地。

这样,在有自己的场所,感情的托付对象也在私人领域内是有利的。瞭望着自己住宅的庭院状态,是最合适的。不可

思议的是,对庭院以外的草木托付感情是容易的,他人却没有理由领悟,姑息不论远离村庄的一间屋子周围的大自然,即使在公园绿地和行道树中与对手进行感情放电,也觉得有点害羞,人们好像多少都有点都市人的一般心理。

对庭院的杂木林风格还是以不讲究的态度为好,之所以这样考虑,是因为在本人担任庭院修建的情况下,从不详细指

定树木的种类,不过,在粗略之中也有很强的执着追求,从室内放眼望去的良好位置,特别是作为日常生活的中心的

起居室,在饭厅前面配种了落叶的大树。我不问树的种类,但树木的形态要根据预定交付,可能的话,先看了实物后

再选定。本人的想法是,粗壮的树干可以使人的背脊充分舒展,是那种上面树枝伸展很宽的树。由于受到最高预算的

制约,也用那种树叶尚未长出,尺寸不够的树木,种植这样的树是对其将来成长的期待。

对这样一棵树的执着,一是为了适应季节需要修剪的落叶树,就是前面提到的那些,作为庭院的精神治疗效果,不可

缺的是自然的节奏,最具象征性地反映出来。夏天,落叶树有厚厚的树叶,造就了遮荫纳凉的场所,冬天,枯叶抖落,让阳光能够透过。更不用说,春天是树木的发芽季节,秋天的树叶色彩尽染,有着随着季节变化的风景。但是与此并

列的一个重要理由是,大的落叶树对室内气候有着良好的影响。当然,落叶树根据季节的变化,面朝树木的房间,需

要对向阳的自然营运作实质性的调整。

对于落叶树的恩惠,我在自己的家里年年都有持续的实感。父母家的庭院前面,是以南北细长的格局建的,我家的南

端几乎与地基的边界连接,在这一面没有庭院,幸运的相邻的地块是公园,那里立着的落叶树使我享受到了向阳的调

整效果。夏天,郁郁葱葱的茂盛树叶将绿色反映在室内,显得微微有点暗,冬天透过枯枝淡淡的阳光向屋内射进来,

如是晴天,直到白天过去后,屋内连暖气也不需要,暖融融的。

正如我所记述的那样,庭院强烈要求反映四季的变化,在这里可以看出“风景”是庭院的最大意义所在,这好像是日

本人特有的庭院观。如何将私人氛围围绕起来,再加以人工,日本人对追求庭院的风格有着自然的微型模型,这种自

然志向在选择以石喻山,以砂喻水的枯山水之类的包含了曲折操作的庭院中,是一贯如此的。这样的结果,作为对象,不应该克服自然,而是要营造亲和的环境,这就是日本人的自然观的由来,当然,可以说我对杂木林的喜爱,就是受

了它的影响。

第五課木の葉の魚

?イは、貧しい漁師の娘でした。

その漁師の家の貧乏さかげんといったら、財産は何一つなく、借り物の小舟が一艘に、借り物の網が、た

った一枚あるだけでした。それなのに、子供ばかりは十人もいて、おまけに、その子供たちを養う父親は、病

気ばかりしているといった具合でした。

さて、その家の一番上の娘の?イが年頃になって、いよいよどこかにお嫁にやらなければならなくなった時、母親は自分の娘をつくづくと眺めて考えました。

こんなに色が黒くて、学校にもろくに行かなかった娘を、もらってくれる人がいるだろうか……

それでも、自分の娘は、なんとか幸せになってほしいと願うのが親心というもので、?イの母親は、村の

人に会うたびにこんなふうに頼んだものでした。

「うちの?イに、お婿さんを探しておくれ。ご覧のとおりの貧乏人で、仕度はなんにもしてやれないが、

嫁入りの時には、とっときの道具を一つ持たせてやるつもりだから」

村の人達はふんふんと頷きましたが、?イの家の山ほどの借金の事を思い出して、誰一人本気で?イのお

婿さんを探そうとはしませんでした。

ところが、この?イを大喜びでもらおうという人が出てきました。それは、遠い山の村から時々野菜を売

りにやってくる婆さんで、山番をしている自分の息子の嫁に、ぜひ?イをほしいと言い出したのです。その婆

さんの話はこうでした。

「貧乏はお互い様だ。?イちゃんみたいに働き者の娘をうちの嫁さんにもらえたら、どんなに助かるかし

れない。仕度はなんにもいらないから、体一つで来ておくれ」

これを聞いて?イの母親は大喜びしました。願ったりかなったりの話だと思ったのです。

こうして、それからいくらも経たないうちに?イは、山からやって来た行商の婆さんに連れられて、まだ

見たこともない人のところへ嫁入りすることになったのです。

いよいよ?イが村を離れる前の晩に、母親は古い鍋を一つ出して来てこう言いました。

「いいかい、?イ、これがお前のたった一つの嫁入り道具だよ。汚い鍋だけれど、これ一つがお前を幸せ

にするからね」

?イは、ぽかんと母親を見詰めました。母親はその?イの耳に口を寄せて、鍋の蓋をそっと開けました。

「これから母さんの言う事をようく覚えておくんだよ。これは不思議な鍋でね、この中に山の木の葉を二、三枚入れて蓋をして、ちょっと揺すって又蓋を開けると、木の葉はすばらしい焼き魚になるんだよ。そこに柚

子でも絞って食べてごらん。そりゃもう、とびきりの御馳走だから」

?イは目を丸くして、そんな不思議な品物が、一体どうして自分の家に合ったんだろうかと考えました。

すると母親は?イを両手で抱き寄せてささやきました。

「この鍋には母さんの祈りがこもっているんだよ。お前が幸せになるように、母さんは百日、海の神様に

お願いして、この鍋をもらったんだから。だけどね、このことをようく覚えておおき。あんまりやたらにこの

鍋を使ってはいけないよ。なぜって、この鍋には入れられた木の葉が焼き魚に変わる時に、海ではちょうど同

じ数の魚がお前のために死んでくれるんだからね。その事を考えて、この鍋は嫁入りをした最初の晩と、それ

から本当に大事な時にだけ、使うんだよ」

?イは頷きました。母親は鍋をていねいに風呂敷に包んで、?イに手渡しました。

こうして、鍋を一つ抱えただけの海の娘は、お姑さんの後について旅立ったのです。

長い道程でした。

二人はバスに三時間も揺られたあと、石ころだらけの山道を何時間も歩きました。おろしたての草履が磨

り減って、鼻緒が切れるくらい歩き続けた時、やっとがけの下の小さいな家に着きました。

それは緑の木漏れ日に包まれた草屋根の家でした。家の前には高い朴の木と小さな葱の畑がありました。

「ここだここだ。ここが、わしらの家だ」とお姑さんが言いました。?イは目をぱちぱちさせて、「いい

家ですねえ、立派な屋根ですねえ」といいました。?イが今まで住んでいた海の家はトタン葺きで、屋根には

石がたくさんのせてあったのです。それに比べると、この草屋根はなんとどっしりとぶ厚くて、温かい感じが

するんだろうかと?イは思いました。

すると、その家の戸ががらっと開いて、これはまた、どっしりとしてあったかい感じのする若者が顔を出

しました。若者は?イを見ると、それはいい感じに笑ったものですから、?イは一目でこの人が好きになりま

した。

その夜、?イは母親からもらった鍋を使って、とびきりおいしい魚の料理をこしらえました。

鍋の中に、朴の葉を三枚並べて蓋をしてちょっと揺すって、又蓋を開けると――

どうでしょう。鍋の中にはカレイが三匹、ちょうどいい具合にこんがりと焼けていたのです。

?イは、焼きたての魚に塩を振り掛けてお皿にのせて食卓に運びました。料理の上手なお嫁さんが来たこ

とを、?イの夫はただもう喜びました。けれども、お姑さんは箸を動かしながら首を傾けました。

(はて、これはどうしたわけだろう。魚はどこで手に入れたんだろう。たしかに、この娘は鍋一つしか持っ

て来なかったのに……)

けれども、お嫁さんはそれっきり、鍋を高い戸棚にしまいこんで使おうとしませんでした。

静かで平和な日々が過ぎて行きました。山ではふくろうが鳴き、鳩が鳴き、きつねが鳴きました。そんな

動物たちの声を?イは聞き分けることができるようになりました。朝は早く起きて水を汲み、昼は畑を耕し、

夜は機織をして、毎日せっせと働いて、春が過ぎて行きました。

ところが、その年の夏は雨が多く肌寒く、めったに晴れる日はありませんでした。そのために秋になっても山

の木の実は実らず、丹精した畑の作物も腐ってゆきました。

おそろしい飢饉がやって来たのです。

長いあいだ?イの一家は、乏しい食べ物で食いつないできましたが、とうとう細い薩摩芋が一本しか残ら

なくなった時に、お姑さんは青い顔をして?イに言いました。

「いつかの魚の料理を作ってもらえないかねえ。もう食べ物は何にもなくなってしまった」

その目は、あの鍋の秘密をちゃんと見抜いているように思われました。?イは頷きました。こんな時には

海の神様も許してくれると思ったのです。?イは家の外へ出て行くと、木の葉を三枚とって来て鍋に並べました。それから蓋をしてちょっと揺すって、また蓋を開けると鍋の中には、すずきが三匹じゅうじゅうと焼けて

いました。それを三枚のお皿にとりわけながら、?イは真っ青な秋の海を思い浮かべました。?イは自分達の

ために命を捨ててくれた三匹の魚にそっと手を合わせました。

雑木林の向こうに住んでいる隣の家の人々がやって来たのは、それからしばらくあとのことでした。

今ごろ、魚の焼けるにおいがするので、ちょっと寄ってみました。この飢饉に一体どこで魚を手の入れた

のか、それを聞こうと思って――

おどおどとへつらうように隣の人は言いました。これを聞いてお姑さんは、?イに魚を焼くように言いま

した。そこで?イは、又木の葉をお客の数だけ鍋に入れました。

「さあさあ、遠慮なく食べていってください」とお姑さんは言いました。お客は大喜びで魚を食べて帰っ

たのです。

ところが、困ったことになりました。

あの家に行けば、魚がただで食べられるという噂が、村から村へと広まり、遠い道を歩いて飢えた人達が、?イの家をたずねてくるようになったのです。?イは、朝から晩まで台所に閉じこもって、木の葉を鍋に入れ

ては魚の料理を拵えました。ああ、これで何十匹、海の魚が死んだろうか……そんなふうに思いながら、それ

でも?イは手を休めることができませんでした。魚を食べたい人達は、それでも?イは手を休めることができ

ませんでした。魚を食べたい人達は、あとからあとからやって来ましたから。

ある日、とうとうお姑さんが言いました。

「こんなときにただで魚を振舞うこともあるまい。うちも貧乏なんだから、魚一匹につき、米一合でも、

大根一本でも、いくらかのお金でも、もらったらいいと思うが……」

これを聞いて?イはすぐこう答えました。

「あの鍋はやたらに使ってはいけないと、里の母さんに言われました。ただで魚を上げるのならまだしも、お金や物と交換するのでは、海の神様にすみません。鍋に入れた木の葉の数だけ海では魚が死ぬのだと聞いて

います」

すると、お姑さんは笑いました。

「山の木の葉と海の魚はおんなじことさ。山の木の葉が取っても取ってもなくならないように、海の魚だ

って、なくなりゃしない」

横から?イの夫も口を合わせました。

「そうとも。海の魚は山の木の葉とおんなじだ」

仕方なく、?イは又台所に入って行って、魚の料理を拵え続けたのです。ああ、せつないせつないと思い

ながら、何百枚何千枚の木の葉を鍋に入れ続けたのです。

林の中の小さな家は、やがて魚のにおいでいっぱいになりました。それにつれて、家の中は米や豆や野菜

や果物でいっぱいになりました。魚を食べたいばかりに、人々はとっときの食べ物を持ってやってきたのでし

たから。そのうちに、?イの夫は山番の仕事をやめました。お姑さんも畑仕事や縫い物をやめました。?イの

夫は、時々もらいものの野菜や豆をかごに入れて麓の村に売りに行きました。そうして、いくらかのお金を作

っては戻って来たのでしたが、ある日のこと、?イに一枚の美しい着物を買ってきたのです。

それは白地に、椿の花がほとほとと散っている着物でした。その花びらの、ぽってりとした赤が?イの心をくすぐりました。ま新しい着物を手にしたのは生まれてはじめてのことでしたから。?イは涙が出るほどうれしいと思いました。突き上げてくる喜びの渦の中で、?イは海の神様への後ろめたさも里の母親の注意もさらりと忘れました。新しい着物を抱き締めて、この鍋がお前を幸せにすると言った母の言葉はこういうことだったかと自分なりに解釈したのです。

それからというもの、?イは喜んで魚を焼くようになりました。

?イの家に魚を食べに来る人々の群れが細い山道にひしめきました。?イの家はどんどん豊かになり、?イは美しい着物を何枚も持ってるようになりました。

そうして、それから、どれほどの月日が過ぎたでしょうか。

激しい雨が丸々なのか降り続いたある明け方のこと――

三人はドドーッという不気味な音を聞きました。それから、家がぐらりと大きく揺れるのを感じました。

「山崩れだ!」

?イの夫が叫びました。

「後ろの崖が崩れてくる!」

とお姑さんも叫びました。たちまちのうちに、天井がメリメリと鳴り、柱が揺れました。ああ、家が潰れる……もう逃げることもできずに?イの夫が畳の上に蹲った時、いきなり?イが言ったのです。

「いいや、違う……」と。

それから?イは天井を見上げて、

「あれは海の波の音だ」とつぶやきました。

「波の音?波の音がどうしてこんなところまで聞こえるものか」

「そうとも。お前の空耳だ」

けれどもこの時、?イは懐かしさに躍り上がり、髪を振り乱して戸口に駆けていたのです。そうして、カタリと戸を開けると――

どうでしょう。

山の木もれ陽とそっくりの色をした海の水が、ゆらゆらと家の中にあふれこんで来るではありませんか。

「ほうら!」と?イは叫びました。それから、上を見上げて何もかもを知ったのです。

なんと?イの家は、海の底に沈んでいたのです。

一体、どういうわけでそんなことになったのか分かりません。大津波でも起きて、遠い海が山まで押し寄せてきたのか、それとも海の神様の大きな手が、この小さな家をつまみ上げて海の底に沈めてしまったのか……

それにしても、海の底に沈められても、三人は苦しくも寒くもなく、ただ、堅田がいつもより少し軽いだけでした。三人は戸口のところに集まって、呆気にとられて上を眺めました。

この家を覆っていた緑の木の葉はみんな生きた魚になり、群れをなして泳いでいくところです。しばらくその美しさに見とれたあと、お姑さんがため息をついて言いました。こんなところに沈められて、この先、どうやって生きていったらよかろうかと。

この時です。?イはずっとずっと上の方で、誰かが自分を呼ぶのを聞きました。

「?イ、?イ、こっちへおいで」

温かいやさしい声でした。

「?イ、?イ、こっちへおいで」

「ああ、母ちゃん!」

思わず?イは両手を上げました。それから、よくよく目を凝らすと、網が――そうです。まぎれもなく、?イの家の継ぎ接ぎだらけの借り物の網が頭の上いっぱいにひろがっているではありませんか。

「父ちゃんの舟がきてるんだ」

と?イは叫びました。

「父ちゃん母ちゃん、網で引き上げておくれ。私達を助けておくれ」

?イは駆け出しました。続いて、?イの夫お姑さんも?イの後を追いました。

ゆらゆら揺れる緑色の水の中を、三人は両手を広げて走り続けました。

こんぶの森を通りました。サンゴの林もわかめの野原も通りました。

網はどんどん大きく広がって行き、海全体をすっぽりと覆い尽くして行くようでした。

お昼を過ぎて夕暮れが近づいて、海の底に射し込む陽の光が緑から紫に変わる頃、三人の体はいきなりふ

うっと浮き上がりました。まるで三匹の魚のように。

三人は網を目掛けてのぼって行きます。両手を広げてゆらゆらとのぼって行きます。

?イの母親のやさしい声が、おいで、おいでと呼んでいます。もうすぐ、もうすぐなのです。

(『南の島の魔法の話』講談社文庫より。漢字表記の改正あり)

树叶鱼

爱是一个贫穷的渔家女儿。

要说这个渔家到底有多穷,那就是,没有任何家财,所拥有的,只有借来的小船一艘,借来的渔网一张。尽管这样,

家里还有十个孩子,雪上加霜的是,肩负养家重任的爸爸,还一直身体欠安。

话说,这个渔家的长女爱到了该出阁的年纪时,妈妈便开始仔细思量着自家女儿的终身大事。

“像我家女儿这样皮肤黝黑,又几乎没怎么上过学,会有人家要么······”

话虽如此,可怜天下父母心,做父母的总是希望自家的孩子能够过的幸福。正是如此,爱的妈妈每当遇见村里的人,

都会拜托道:

“麻烦您给我家爱介绍个婆家吧!您也知道,我们家很穷,虽说给不起什么值钱的嫁妆,但真到出嫁的时候,一定会

有一个秘密惊喜的!”

村民们虽频频点头,满口应承,可一想到爱家里那堆积成山的外债,谁都不会真的想替爱介绍个婆家。

然而,一个给了爱无限欣喜的人出现了。她就是来自遥远山村,时不时过来卖菜的老婆婆,她希望爱能成为她的儿媳,嫁给她看守山林的儿子。老婆婆的话是这么说的:

“咱们谁也别嫌谁家穷。像小爱这样能干活的孩子要是嫁到我们家,那可就太好了!嫁妆什么的就不用了,

人来就够了!”听了这些,爱的妈妈非常高兴,心想,这真是求之不得的事情啊!

就这样,从那以后没过多久,爱就被从山那边过来做生意的老婆婆带着,去嫁给一个甚至连一面都没见过的人。

终于到了爱临行前的那个晚上,妈妈拿出来一柄旧锅,说道:

“就这样吧,爱,这个就是你唯一的嫁妆。虽然只是一柄脏兮兮的锅,可这是唯一一个能给你带来幸福的东西。”

爱听了这话后,呆呆的看着妈妈。妈妈把嘴凑近爱的耳边,轻轻地揭开锅盖,说道:

“妈妈下面说的话,你要好好的记住。这是柄神奇的锅,在锅里面放进两三片山里的树叶,盖上锅盖,稍微摇下锅,

再打开,树叶就会变成美味的烤鱼。再榨点柚子汁放进去就能吃了。这样,一顿诱人的美味就做成了!”

爱听得目瞪口呆,想,这样神奇的物件,到底为什么会出现在自己的家里。这时,妈妈将爱揽入怀里,低声说道:

“这口锅里可是盛满了妈妈的祈祷呀!为了你能够幸福,妈妈向海神经年累月的祈祷,海神才恩赐这口锅给我。但是呢,有件事要好好记着,千万不能随便使用这柄锅。因为当放到这口锅里的树叶变成烤鱼的时候,海里面就会有相同

数量的鱼因为你而死去。介于这个原因,这口锅只有在你嫁过去的第一个晚上,还有就是真正危难的时刻,才可以使用。”

爱点了点头。妈妈郑重地把锅包在包袱里,递给了爱。

就这样,只带着拥有海之秘密的锅的爱,跟着婆婆踏上了旅程。

那是一段漫长的路啊。

两人经过三个小时车程的颠簸,走了不知多久布满碎石的山路。哪怕新穿的草鞋被磨薄,鞋带被磨断却仍要走个不停。终于,他们抵达了山脚下的小房子。

那里绿树成荫,阳光穿过绿叶丝丝缕缕得洒在草屋顶上。家门口是高大的厚朴和小片儿的葱田。

“就是这儿,就是这儿啦!这里啊,就是我们的家了!”婆婆说。爱眨巴眨巴眼睛说:

“这房子真好,屋顶真漂亮!”。爱迄今为止住在海边的家是用铁皮做墙,砌石为瓦的,跟娘家相比,这种草屋顶显

得那么的厚实、安稳,爱想象着,住在这里该是多么的温馨啊!

就在这时,房子的窗户嘎吱一声开了,接着出现了一张给人感觉稳重而又温和的年轻的脸。年轻人看见爱,报之以柔

和的笑容,就是这一笑,让爱对他一见倾心。

就在这个夜晚,爱拿出妈妈给她的锅,做了一餐美味的烤鱼。

在锅里并排放入三片厚朴的树叶,盖上锅盖,轻轻的摇一摇,再揭开锅盖——

怎么样了呢?锅里面三条鲽鱼,用恰到好处的火候烤好了。

爱把烤鱼撒上一层盐,盛在盘子里端上餐桌。娶了个厨艺好的媳妇,爱的丈夫只是单纯的开心,然而她的婆婆却边举

箸而食边歪头沉思。

(哎呀呀,这到底是怎么回事儿?她这鱼到底是从哪儿弄来的?这姑娘确实只带了一口锅来啊···)

可是,只此一次,新娘就把锅收到了高高的橱柜上,再也不用了。

宁静而和睦的日子一天又一天的度过。山里猫头鹰的叫声,鸽子的啼鸣,狐狸的声音此起彼伏,爱也渐渐能够分辨出

这些动物的声音。晨雾微薄时汲水,天色明朗时耕田,夜幕降临后唧唧复唧唧,就在这样每天充实的劳动中,春日匆

匆而过。

可是,这一年的夏天淫雨霏霏,凉意四起,几乎觅不着晴天的踪影。所以,到了秋天,山里的树不结果,精心耕作的

田不产粮,庄稼也烂在地里。

可怕的饥荒终于来了。

爱的家里已经很长一段时间靠着贫乏的食物勉强糊口,可也终究到了连一个小芋头都不剩的境地,这个时候爱的婆婆

铁青着脸对爱说:

“什么时候做顿鱼给我们吃啊!家里已经断粮了!”

爱点点头,心想,看样子,锅的秘密已经被知道了,在这种时机用锅,海神一定会原谅的吧!爱走出了家门,摘了三

片树叶并排放在锅里,盖上锅盖,轻轻摇一摇,再揭开锅盖的时候,锅里面三条滋滋作响的鲈鱼刚刚烤好。爱把鱼盛

到三个盘子里的时候,秋日里蓝得深邃的大海在她的脑海里波涛汹涌,爱双手合十,静静地为这三条因为自己和家人

而丧失生命的鱼而默哀。

住在杂树林对面的邻居们过来了,那是这之后不久的事情。

现在这种时候,竟然还有烤鱼的香味,一定要过去看看。在这种饥荒的年岁里,到底从哪里弄来的鱼呢?他们都想知

道这个答案---

听了邻居们口是心非的奉承话后,婆婆把爱烤鱼的事情说了出来。如此一来,爱只好又把正好和客人数量一样的树叶

放入锅里。

“来,来,大家不要客气,尽管吃好了!”婆婆如此说道。客人们也欣喜若狂地饱餐而归。

然而,麻烦开始了。

只要去那家,就有管饱的鱼吃。这种传言在村里村外传得沸沸扬扬,远道而来饥饿的人们开始连绵不绝的拜访爱的家。爱从早到晚的在厨房闭门不出,把树叶放在锅里变成烤鱼。哎呀!这么一来,又要有几十条海里的鱼要死啊!虽然这

么想,爱只能片刻不停的做,因为要吃鱼的人们总是一拨儿接着一拨儿来。

终于有一天,婆婆开口了。

“这种时候不能再免费给他们鱼吃了!我们也是穷人家,一条鱼他们给我们一斗米也好,一个萝卜也罢,无论多少都行,好歹得给点啊···”

听了这些,爱不假思索的答道:

“我娘家的妈妈告诫过我,那个锅是不能随便用的。免费招待人家鱼吃还马马虎虎能说过去,要是用钱或者东西换的话,就对不起海神了,因为据说会有和放进锅里的树叶一样数量的鱼死去。”

可婆婆却笑了起来。

“说到海里的鱼和山里的树叶一样的话,山里的树叶是取之不尽的,那海里的鱼也一样用之不竭吧!”

爱的丈夫也在旁边异口同声的插话道:

“对,就是这样,海里的鱼跟山里的树叶是一样多的。”

没办法,爱只好又回到厨房,继续做着烤鱼。唉,一边难过的就要窒息,一边片刻不停的把上百片,乃至上千片树叶

投入锅里。

森林里小小的家中,很快又充满了鱼的香味。伴随着这香味,家里满是米呀,大豆呀,蔬菜呀,水果之类的东西。这

是因为人们为了吃鱼,纷纷带着珍藏的食物而来的缘故啊!正因如此,爱的丈夫也辞去了看守山林的工作,婆婆也不

再干农活,不再缝补衣物。爱的丈夫时不时的把人家给的蔬菜,大豆之类的东西装在筐里拿到山脚下的村庄里去卖。

就这样,爱的丈夫赚了些钱回来并在某天,给爱买了一套美丽的和服带回家。

那是件素净的,布满了山茶花的和服。那敦厚的红色花瓣撩动着爱的心弦,这可是爱有生以来第一次收到全新的和服啊!爱高兴得眼泪都快出来了,沉浸在快乐的漩涡之中不可自拔,对于海神的内疚之心,娘家妈妈的忠告都一股脑儿

的抛在了脑后。爱紧抱着崭新的和服,妈妈所说的“这口锅可以给你带来幸福”的话原来是这个意思,爱给这句话赋

予了自己的解释。

从那以后,爱开始带着愉快的心情烤鱼。

到爱家里吃鱼的人们络绎不绝,让狭窄的山路颇为拥挤,爱一家过得渐渐富裕,爱也拥有了好几套美丽的和服。

就这样,从那以后,又过了多少个日日月月呢?

那是暴雨连续下了七个昼夜的时候了——

三人听见了令人恐惧的咚咚的声音,接着,突然感到房屋剧烈的摇晃。

“山塌方了!”爱的丈夫大叫起来。

“后面的山崖也塌了!”

婆婆也叫了起来。转瞬间,天花板就发出咯吱咯吱的声音,柱子也摇晃起来,啊!房子倒塌了···已经逃不出去的爱的丈夫跌坐在榻榻米上,冷不防的,爱说道:

“不,不是······”

爱抬头看着天花板,“这是海里的波涛声。”爱喃喃地说。

“波涛声?波涛声怎么可能在这个地方听到!”

“是啊,是你的幻听吧!”

然而就在这时,爱好像担心什么似的跳了起来,头发狂乱的飞舞着奔向大门。

接着,哗啦一声拉开了门——怎么样了呢?

这不是和山里树木浓荫中透出的点点阳光一模一样的波光粼粼的海水么,正在不疾不徐地晃动着淹没整个房间啊!

“看呐~”爱大叫着,接下来抬头一看,便知道发生了什么。

不知为什么,爱的家,竟然沉入了海底。

究竟为什么会发生这种事情已经无从得知。究竟是发生了大海啸,遥远的海洋涌向了山之国度呢?还是海神的大手将这小小的家捏起来沉入海底了呢?

话虽如此,虽然沉入了海底,三人都既没感到痛苦也没感到寒冷,只是,身体比平常稍微轻了一点而已。三人聚在大门口,呆呆的眺望着水面,盼望着谁能把他们救起。

环绕着房屋的绿油油的树叶全部都变成了游弋着的鱼,成群结队的游动着。在被这美景短暂的吸引之后,婆婆哀怨的说,“沉在这种地方,这节骨眼儿上,到底该怎么活下去啊!”

就在此时,爱听见来自水面的不知是谁的呼唤。

“爱,爱,到这儿来。”

那是温暖而又柔和的声音。

“爱,爱,到这儿来。”

“啊!妈妈!”

爱潜意识中举起双手,接着,仔细的凝视着,那是网——是的,这确实是爱娘家那东拼西凑而来的渔网,在爱的头上铺天盖地的罩下来!

“是爸爸的小船过来了”爱大叫着!

“爸,妈,快点把网向上拉,把我们给救出去!”

爱奔了出去,爱的丈夫和婆婆也紧紧的跟在爱的身后。

在晃动着绿色的水中,三人张开双手奔跑着。

穿越了海带的森林,跨过了珊瑚的树林,跑过裙带菜的草原。

网渐渐变大变宽,像是要把大海全部包住、尽数覆盖一样。

从晨曦奔到日暮,在射入海底的阳光由绿变紫的时候,三人的身体突然呼的一下浮了起来,

简直就是变成了三条鱼。三人向着网逆流而去,张开双手摇摇摆摆地溯流而上。

爱的妈妈那温柔的声音在呼唤,过来啊,过来啊!快了,就快了······

第七课紅山桜

昔、弾誓上人という遊行聖が桜の木を切って自分の姿を刻みはじめたところ、たちまちその木から熱血が流れ

出たという。上人はただちに刻むのをやめて、袈裟で覆い、箱に入れた、という伝説がある。

桜のなかでもとりわけ、紅の濃い紅山桜を見ていると、熱血が流れでたというこの伝説がなまなましく、

身近なものに思えてくる。

北の桜をたずねる今回の旅は、新潟に住む写真家、高波重春さんと一緒だった。

私は行く先々の旅館でぬくぬくと畳の上に寝たが、高波さんは川辺や公園のわきに愛用のワゴンを止め、

その中で寝ていた。誘っても、断固として車内で寝る習慣を変えなかった。毎年、春になると、桜前線を追っ

て全国を走り回る。ほぼ二十年、そうやって桜を取り続けている人だ。

高波さんとの旅はたのしかった。撮影の合間に?いっくら撮ってもろくなもんできねえけど??こんげな景色見てと、写真というちんけえ四角の枠におさめんのがばからしくなっちゃう。ただもう、ひざまずくしかない

なあ?と自嘲のお国ことばが飛びだす時は、結構調子になっている様子だった。ひざまずくどころか、そんな時の高波さんは三脚を担いで右に左にかけ回った。

東北や北海道の桜を見て、そのしぶとさに驚かされることが多かった。

福島県三春町にある紅枝垂の巨木、滝桜はわずかに盛りをすぎていたが、私は花の滝に打たれながら、そ

の幹や枝の怪物じみたたくましさに見とれた。私よりも先に着いて撮影を続けていた高波さんは?三日前が最高でした。最高の時に見てもらいたかったなあ?と残念がった。?最高の状態の桜の花が取れるのは一年のうちの

一日、一日のうちのいっときですね?ともいった。私としては、花はいつ見ても花だと思いたい。つぼみの桜もいいし、泥にまみれた花びらもいい。だが写真を撮るとなると?一年、いっとき説?も成り立つのだろう。

よるうちに十分に水分を吸った花が早朝のやわらかな光に包まれて照り映える。その一瞬がすばらしいと

いう。逆に乾いた風にさらされ続けると、花の表情はおおざっばなものになってしまう、のだそうだ。?ですから、おらの取材は祈りの繰り返しです?と写真家はいった。

私たちは福島から青森へと桜を求めてさまよい、南に下って秋田の湯瀬に着いた。湯瀬の山や沢ぞいに咲

く紅山桜を見て、二、三日腰をすえることを決めた。高波さんは翌朝の撮影地点をさぐるのに半日を費やした。立ち止まって、長い間、桜を見つめ、?桜と対話するなんていうのは、こちらの思い過ごしだろうな?とつぶや

いた。

?桜のほうは、好きで咲いているわけですし、しょせんは片思いなのでしょうが、早朝ひとりで山の中の桜と相対していると、ああ今おらはこの桜と二人きりで時間と空間を共にしているという思いがあって、そう思

いながらも怖くなることがあるんです。桜には美しさを超えた恐ろしさがあり、恐ろしいと思いながらもひき

こまれます。その瞬間をえいぞうにしたいとおもいますね?

もうすぐ五月だというのに、夜ふけて雪になった。翌朝六時、目覚めると雪はまだ降り続き、桜は白い紗

のむこうにあった。川辺に停車中のワゴンを探しあてた。肩を落としているだろうと思った相棒は?雪国はいつもこうです。雪と桜とを一緒に取れるなんてすばらしい出会いですよ?とむしろ上機嫌で、はやる心を抑えている様子だった。

私は雪の降りしきる湯瀬の山へひとりでは入った。わが相棒の?片思い?に同情したこともあったし、私自

身もまた、一人で桜に向かいたいという気分になっていた。

雪はみぞれになり、みぞれがまた雪になった。雪に打たれながらも、花はほとんど散らない。これしきの

ことで、散ってたまるかという調子でしがみついている。雪がやんだ。雲が割れて、日がさす。切り裂くよう

な透明な空気の中で、ぶなの新芽が光る。キブシの黄の花が輝く。

谷川のそばに一本のはぐれ桜があった。やあと呼びかければ、やあと答えてくれそうな、ほどほどの大き

さの紅山桜だった。群れからきっぱりと離れているところがいい。幹がぬれぬれと黒い。

光をあびて、桜の花の一つ一つ、花びらの一枚一枚がにおいたち、なんというか、すっきりとした情念を

放っている。

?しず心なく?花の散るさまを、古人は歌った。だが、今、この紅山桜はまさに?しず心?で咲き続けている。降り続いた雪や雨に動ずることもなく、散り急ぐこともない。

はぐれ桜が発している情念とは、しず心そのものではないか。長い間向き合っているうちに、そのしず心

がこちら側に忍びこみ、心の奥底に潜むしこりのようなものを溶かし去ってくれるような、そんな感じを味わ

った。

午後遅く、私は高波さんと落ちあった。ラーメンを食べながら、いい写真が取れただろうかとたずねた。

?いいのが取れたと思ってても、現像があがってくるとむなしくなります?と相棒は自嘲の姿勢である。調

子はまずまずだったらしい。

フ?インダーをのぞいている時の感動が写真にするとでてこない、それがもどかしい、ともいった。これ

は本音だろう。

もどかしいから?来年こそは?と自分を追い立てる。?来年こそは?が撮影を繰り返す力の源になる。桜を撮

りはじめた時、はたちだった青年が今は四十歳を超えている。

冬は、新潟で除雪車を走らせる仕事をして撮影の資金をかせぐ。百姓の仕事もする。何種類もの桜を種か

ら育てている。?東京という街はなんといっても無機質な感じです。ですから新潟でべと(土)にへばりついて、体を張って大地を感じとる暮らしを続けること、おらにはそれしか生きる道がないんじゃないか。そういいき

かせています?

秋田で別れる時に、たずねた。

?桜への片思いはまだ続きますか?

?死ぬまでとり続けます。桜は私に生命力を与えてくれているわけですし、生涯、桜にすがって生きてゆくでしょうね?。そういってから、照れ屋の写真家はつけ加えた。?といってもどこまでゆけるかわかんねえけど?高波さんは新潟に戻り、私は一度帰京し、五月中旬、北海道の襟裳岬をめざした。今度は桜の散るさまを

見たかった。相棒なしの旅だ。

えりも町の庶野で、海辺の小さな旅館に泊まった。海鳴りと雨の音を耳にしながら寝た。翌日もあめだった。雨が小降りになると、岬を吹き渡る風が激しくなった。

?いつもこうなんですよ、ここは。雨がやむと風、風かと思うと雨で?と旅館のおかみさんがいった。翌日

も雨だった。

こうなってはしず心で待っているわけにはいかない。雨と雪の中に散る桜を見物に行くというと、お上さ

んは酔狂な客の顔をしげしげと見て、今なあ、うどんをゆでたところだから、せめて体を温めてからゆきなさい、といってくれた。ありがたく、いただいた。ひとり歩きは危ない。クマが出るといけないから、といって

呼子を貸してくれた。

町が自慢する桜公園を抜けて、林道を奥に入る。さすがに人影はない。雨の中で、大花延齢草の白さがき

わだって見える。横なぐりの風が吹き、蝦夷大桜草の花が激しくゆれている。風に散る桜もあり、散らない桜

もあった。桜の散るさまを見に来たつもりではあったが、ここで見た北の桜はやはり、風雪に耐えて咲き続け

る姿に風情があった。

手がかじかみ、ぬれそぼって歩いているうちに、いきなり眺望が開けた。

遠景に雪の山々があり、手前の山々には辛夷が咲き、落葉松があわあわとした緑を見せている。赤茶色の

ひろがりは、楓やぶなの新芽だろう。その赤茶色の炎の中に紅山桜が点在している。私は立ちつくした。立ち

つくしているうちに露草色の空が見えてきた。風の中のしぶきが銀色に光っている。

近づいて桜をあおぐ。花びらに、ツメでひっかいたような跡がある。紅色がはげている部分がある。風や

雨との闘いの跡だ。その傷あとに、私は桜の生命力を見た。

桜は時にはぶきみな暗さを見せ、移ろいのはかなさを見せ、死の相を見せる。そして時には生の歓喜の表

情を見せ、しぶとさを見せ、豊かな実りの予兆となる。私たちが桜をたずねずにはいられない秘密の一つは、

この桜の両面性にあるのではないか。

後日、箱根へ行き、阿弥陀寺所蔵の?弾ぬ誓上人絵詞伝?を見せていただいた。確かに、眼光鋭い上人が刻

む桜の木からは赤い血が流れていた。

桜木の熱血伝説を信じた古人は、桜に霊性を見、その霊性の中にぶきみさと、あふれる生命力を見たに違

いない、と私は勝手に解釈している。

综合日语第五册第三课__日常的思想译文

梅原猛,生于1925年,京都大学文学部哲学科毕业。立命馆大学教授,京都市立艺术大学教授。曾任国际日本文化研究中心代所长,现为京都市立艺术大学名誉教授、国际日本文化研究中心顾问。1972年获每日出版文化奖,1974年获第一届大仏次郎奖,1992年获文化功劳者表彰。主要著作有《地狱的思想日本精神的一系谱》、《隐藏的十字架法隆寺论》、《水底的歌柿本人论》等。 关于闲暇应该怎么看?用哲学的考察来回答这个问题,是报社交给我的一个课题。闲暇问题将逐渐变成我们社会的重要问题,这是因为随着科学技术的发展,生产力的提高,人们劳动时间的缩短,不管是资本主义国家还是社会主义国家,都正在采用科学技术,这是现代文明所追寻的必然方向。不用说这是一件大好事,因为对人类来说,没有什么比让自己从衣食之忧中解放出来,拥有自由的时间更为理想的了。 从前,自由时间对人类来说堪称奢侈之物,除此之外它什么也不是。这是因为,当人类的大多数为了维持生存而不得不从事劳动时,那些无须从事这样劳动的人便因此而背负了罪名。因此,从事自由的精神工作的宗教家,只能自我断绝了对物质的欲望与性欲。也就是说,他们为了自由的精神生活而付出了禁欲的代价。在这里,闲暇完全是少数佼佼者才可能被允许的特权。我认为,人类原本一直生存在这种以劳动为中心的价值观中,尤其是这样的价值观为近代西方文明所强力推崇,而日本人则是在明治维新之后,才彻底拥有这样的价值观。在德川时代,对既劳动也玩乐的价值观,也曾有过予以肯定评价的观点。 但自从明治维新之后,当日本在下决心是否采用西方文明时,日本人就完全树立了以劳动为唯一价值的一元价值观。这是因为,日本人判断日本或者东方文明无论如何比不上欧洲文明,他们还洞察到,欧洲文明在拥有更强大的军事力量的同时,还拥有更高的生产力。在这里,日本人的洞察是不错的,欧洲的科学文明,是一种通过技术提高生产力,并将其作为文明原理的文明。 日本在欧洲诸国的军事压力下,感到自己到底无法与之匹敌,对欧洲的科学技术文明所产生的巨大生产力感到无比震惊。引进欧洲文明,建设强大富裕的国家,这就是过去百年间日本的目标。将自己全力倾注于这一目标的日本,从而成为一个比欧洲更加欧洲化的、创造了技术文明的国家,成为一个比欧洲诸国更加推崇技术文明价值的国家。在欧洲,科学技术文明存在于与传统的精神文明,特

(完整版)《高级日语》课程教学大纲资料

《高级日语》课程教学大纲 课程编号:D20662B0 课程属性:必修 学时:146学时学分:7 先修课程:中级日语、日本文学史、日本概况、日语实用语法 考核方式:考试 使用教材: 陆静华主编,《日语综合教程》(第五册),上海外语教育出版社,2006年 陈小芬主编,《日语综合教程》(第六册),上海外语教育出版社,2006年 季林根主编,《日语综合教程》(第七册),上海外语教育出版社,2011年 主要参考书: 陆静华、陈小芬主编,《日语综合教程第五、六册课文翻译与练习答案》,上海外语教育出版社,2007年 皮细庚主编,《日语综合教程》(第八册),上海外语教育出版社,2008年 季林根、皮细庚主编,《日语综合教程第七、八册课文翻译与练习答案》,上海外语教育出版社,2009年 周炎辉主编,《日语语法词法·句法》,湖南大学出版社,2000年 一、课程的性质和任务 高级日语是一门综合技能的课程,它涉及日语的听、说、写、读、译等多种实践能力的培养,是本科日语专业的专业必修课。该课程旨在培养学生更进一步熟练掌握日语知识;提高学生实际应用语言的能力;丰富学生的日本社会文化知识,培养文化理解能力,熟练地掌握日语语法体系,使学生达到日本国际交流基金和日本国际交流协会设立的“国际日本语能力考试”的2级水平。 本课程是“中级日语”课程的继续,教学重点从一、二年级的讲解词汇、语法、句型逐渐过渡到分析文章、理解语言背后的社会心理文化,从而掌握地道的日语。通过灵活多样的教学方法,充分调动学生的主观能动性,使学生积极参与课程教学。教师不仅要分析文章、

句子结构,还要介绍大量的语言文化背景知识,避免“中国式日语”的出现,为学生在今后的工作中使用日语打下坚实的基础。 二、教学目标与要求 高级日语教学的目标是:培养学生具有较强的阅读能力和较高的听、说、写、读、译的能力,使他们能用日语交流信息。培养学生良好学习作风,正确掌握良好的语言学习方法。培养学生逻辑思维能力,丰富社会文化知识,以适应社会发展和建设的需要。 本课程的具体教学要求: 1.读一般性日语文章,能理解作品的主要内涵和意境;能较好地归纳、概括其主要内容;能独立分析文章的思想观点、文章结构、语言技巧及问题修饰。 2.对于相当日语能力测试一级水平的文章,借助工具书、参考注释能读懂大意。 3.能用日语写出格式标准、语言基本正确、内容明了的书信、调查报告等各种文体的文章;能写内容充实,具有一定广度和深度的说明文、议论文和论文。 4.能翻译用现代日语撰写的各种文章、书籍。 5.能用日语较正确地表达自己的思想、感情,能与日本人自由交谈。 三、学时分配 本课程的学时共分配在三个学期完成,即大学3年级上、下两学期,大学4年级上学期。根据不同学年学生的具体日语水平,各学期的具体学时也不同。三年级上学期72学时,三年级下学期54学时,四年级上学期20学时。

【通用】综合日语第五册课文翻

《日语》第五册 课文翻译 第一课失明的高僧 公元8世纪中叶。 首都奈良,这里每天热闹非凡。东大寺这座大寺院修建的大佛终于完工。离庆祝大佛竣工的仪式——大佛开光的日子越来越近了。 但是,庆典将至,圣武天皇正期待着一个人的到来。 “但愿他能赶上这次庆典!” 这个人,圣武天皇几年前就一直翘首期盼他的到来。但是,不知什么原因,派去迎接她的是这几年来都杳无音讯。 “他到底会不会来?能来的话,一定要赶上这个盛大的日子啊!” 圣武天皇心里总惦记着这件事。到底是谁让天皇等得如此心焦呢? 故事还得从十年前说起。 那时候,中国有很多僧人东渡日本。同样,日本每年也有一些留学僧飘洋过海到中国去。 “我希望你们能从中国带回一位高僧。” 有一年,圣武天皇委以两名留学僧这样的重托。因为当时的日本还没有一个够资格为众僧授戒的高僧,天皇希望能从中国请到一位这样的人。 所谓戒,就是在佛教中僧人必须遵守的戒律,修行的僧人,有一些事情是禁止做的。如果不严格遵守戒律,就不能成为一名合格的僧人。能够遵守这些戒律的僧人才可以受戒。 佛教在日本很盛行。有很多僧人已经具备受戒的条件,但是有资格给他们授戒的高僧却一个也没有。 来到中国的两位日本僧人,听说唐朝的扬州有一位名叫鉴真的高僧。要是能请到这位高僧就好了,带着这样的想法,他们跋山涉水、不顾路途遥远前去拜访鉴真,言辞恳切地请求鉴真去日本。 鉴真从孩提时就诚心信佛,18岁时,已经成为一名优秀的僧人。他看到这两位僧人不远万里,专程从隔海相望的日本前来邀请自己,被这份热诚深深打动,于是,决定东渡日本,前往那个遥远而陌生的国度。 当时鉴真已经50多岁。因为他要去日本,所以几个弟子也要陪同前往。他们马上动手做准备,第二年便扬帆起航,东渡日本。 但是,这次航行并非一帆风顺。他们的船好不容易扬帆起航,不料途中遇上了狂风巨浪,幸好获救,才得以死里逃生!可刚一回到岸上,他们马上又开始张罗船只,为下一次出航做准备。 很快,一切准备就绪,他们再次出航,不料这次却又遭遇海盗打劫,被掳去很多重要物品,无奈之下只好无功而返。麻烦还不止这些,妒忌鉴真东渡的人也开始百般阻挠。 由于接二连三的失败,一些人失去了东渡日本的信心,他们认为不应该继续这种无意义的旅行。同时因为困难太多,东渡日本的一行人内部也开始出现分裂、争吵,还出现了一些只顾个人利益的人。 即使是在这种时候,坚贞也毫不退缩,他默默承受着一切,不管任何时候脸上都带着微笑。只要看到他的微笑,大家的内心就会受到激励,重新鼓起继续东渡的勇气。 东渡日本屡遭挫折。 真可谓“祸不单行”。不久,从日本前来迎接鉴真的两位僧人中有一位因身染重病不治,最终死在旅途中。正当鉴真为失去这样一位重要人物悲痛不已的时候,像是要追随日本僧人似的,鉴真的大弟子也随之离开了人世。 两位得意弟子的去世,对鉴真无疑是一个沉痛的打击。由于年事已高,加上长期奔波劳

综合日语第七册第一课笔记doc

第一課赤とんぼと油虫 作り話 第一部分昭和二十年、、、、、、ようがなかったのです。作戦の背景を紹介する。戦争の現状を説明する。 ①時間の設定 昭和二十年は1945年で、実は1945年は戦争(第二次世界大戦中の太平洋戦争)と平和の境目(さかいめ 歴史の時点分水线,分界线)である。 「時間の設定」はここで何か役割がある?1945年前に生活が幸せで、しかし、今からつらく悲しい生活になると思いわれる。この文章は時間の逆に順序で書く。例えば、少年の場合:不時着?四週間前?油虫にえさ? 北の海へ泳ぐ。 ここで考え方は何?人間性を変える?人間の意識を変える?人間性ガひねくれる? ②場所の設定 文章の前三段は事件の背景(時間、場所、事物)を紹介する。第三段の「飛行機いました」の表現方法は擬人法である。ここでの「飛行機」も「赤とんぼと」の登場の象徴である。擬人法は語言行為、心理行為、表情行為、感情行為などの行為を含める。 通常、小説の中で登場の事物は作者の目にうつた。 第四段は「飛行機」に対しての解釈である。「けだもの」は文章の中での下等な動物の意味である。その理由は何ですか?「ねそべっている」など。「物思いにふけるみたい」と最後段の「懐かしい」も少年に追悼の表現である。客観の描写である。

第六段は主観の描写(普通の飛行機と戦闘機の比較)である。「赤とんぼと」は少年の友達で、少年の兵器(貴重な兵器)である。 第七段の時、少年が登場する。少年はどういう人ですか?年齢、身分(多重身分)。本土の兵器と兵士は国の柱である。しかし、この国の柱はちょっと弱いね。戦敗の結局である。失敗の原因はちょうど兵器と兵士だ。先端科学と前世紀の比較だ。 文法「ごと」は「まるほど、整体」の意味だ。 少年は日本兵の代表だ。 「ばたばた」の意味ア続けざまに、倒れたり衰えたりすることをあらわす。 イ次から次へと ウたすやく。 「もってきて」更にその上になおかつしかも なぜアメリカ新兵器の考え?脚が出ている? 停止する飛行機皮肉です。 アメリカ兵士は不思議の感じがある。なぜ?戦場に自信をもっているよ。彼らの勝つ姿は戦場にあらわれる。アメリカ兵士は正正堂々と対決したい。 第二部分戦闘力の分析失敗の原因 アスピートが遅け イ航続力も知い ウ出撃がともに失敗 初めて出撃:指揮官の訓示

日语综合教程第五册课后练习翻译题答案和部分本文翻译

第一课 如果无故旷工长达一个月的话一ヶ月ぐらい無断欠勤とすると、現在の社会の状況からみて、おそらく復職したいことが難しいだろう。 虽说中了彩票,但只不过宝くじが当たったといっても、六等の 3000 円でしかないので、飛び上がって喜ぶほどのことはない。 在日逗留期间,我无论如何私は日本滞在中、何としても日本一美しいと言われる富士山を見てみたい。 轮船犹如一叶扁舟あらしの中で汽船はさながら小船のように舞い狂い、今にも転覆しそうで、心配でならない. 我光是抚养妻子儿女妻子を扶養してもう精一杯だけでも、そんな奢侈なものを買って経済能力がない。 我从小由外婆一手带大子供からお祖母さんに手に掛けてくれたので、両親としっくり行ってなかった、このこと通して、両親の不易がありがたい。 尽管我们父子俩相处了30年も私たち親子が一緒に暮らして30年けれども、父と一度たりとも心行くまで話し合ったことがない。 爷爷受不了空前的炎热朝早々、爺さんが空前の暑さが忚えないで、気が遠くなってしまった。みんながあわてて病院に運んだ。 妹妹结婚后一直没有孩子妹は結婚してずっと子供に恵まれなかったが、やっと去年妊娠した。高齢出産の妹が無事に出産することを願ってやまない。. 那地方很安静あの辺が静かで、空気もいいし、買い物や交通も便利なので、老人には住み心地のいいところだと思う。 第二課 考上高中以后僕は高校に入ってから、音楽活動に努めるかたわら、陸上部に入ってスポーツにも力を入れ、日々充実した生活を送っている。 他把她的来信彼女からの手紙を燃やしつくすと、彼は静かにこの町を後に立ち去って行った。 精心策划了二ケ月もかかって、練りに練った陰謀も自分の妻の告白であっけなく失敗に終わった。 那个村庄有一对ある村に老夫婦がいて、一人娘をはなはだ可愛がっていたが、その娘は

日语综合教程第六册课文翻译-第九课

应邀去看海。专门为看海出门的事这还是第一次。 从孩童时期算起大约40年,在湘南的海边生活过来,所以用不着专门的盯着海看。可能因我原来就是对风景感觉迟钝的人,所以对方如果是海这样的庞然大物的话,自己一方无论 如何用力也无济于事。只有不去惊动他。他和太阳公公是同类,本不是从正面可欣赏的东西,是在那里安静的呆着才让人放心这种性质的东西。我这样想着。 在大山怀抱中长大的人对山也一定怀有和我相似的感觉吧,而我进到大山深处时,会感到 奇怪的焦躁不安,想要立刻逃回山外去。 因为这种原因,海也好山也好,景色优美的地方就让给新婚夫妇和老年旅游团去吧。而自 己感到有趣的则是公开表白“景色还是比不上人,再好的名胜还是比不上东京”这些平常 遭农村人反感的话。 但是只有这次似乎不可以这么说。无论如何这三天也得看着海度过—如果不这样的话,想回也回不去—是如此的悲壮之旅。 实际上我看日本海这还是第一次,虽然在玄界滩稍稍乘坐像游船似的船走过是走过, 但那好像不能计入“看”的范畴。并且如刚才所说,以海边长大的人的安心感,不管看到 哪里的海也只不过想:啊,就那么回事。”并对它不曾看过30秒以上。 日本海大概也就是那么回事吧,这样轻视地想,完全没有期待,在看之前担心可能会 没有什么可报告的,于是想到也不可能中途不愿意就逃回来,便心生一计,决定带上一个 健壮的朋友一起去。 是位以前从电视台一起工作时起就一直喝酒交往过来的老朋友、很对脾气的M君。我给他 打电话说:“有没有意思去山阴两二天,去吃螃蟹?”并对他说了“你什么也不用干,每晚 泡温泉喝酒就行了”之类的好听的话。而实际上我是企图把他作为摄影师和包雇的租赁汽 车司机来使用的,像是欺骗凶恶鳖鱼的因蟠的白兔一样。 就这样,两个不懂风雅的男人结伴出发了。来了一看,日本海是狂暴的海—这句话,作为 徘句字数超出规定,作为结论又过于荒谬而不成体统,但作为我来说因是真实感觉所以没 有办法,而且还不是从远处看的印象。是将近两个小时在小船上挤来挤去,相当腻烦后的 老实的感想。 前一天的下午,从京都出发,乘坐山阴本线的柴油机车的火车呕当呕当地北上,从还隐约 可见斑斑点点残雪的但马的山谷穿过,在城崎一带迎来落日。然后钻过山洞,再走一小会 儿终于看到了日本海。用地图来说的话,是竹野滨的附近,山阴海岸公园的正中央。 对我来说是初次见面,也就是连对方的脸也不很清楚的程度。 初春的暮色里,看到它那似有似无的微弱的影子,犹如静静地叹息着一般,眼下只能 说声“果然如此啊”,详细的明天早上再说。于是在滨坂下车,当晚好好地泡泡温泉村的 温泉后就睡下。光从陆地看海还不算本事,所以计划明天乘游船从滨坂到香住,到海中公 园览胜。 早上起来一看,天空与预想相反是个好天,据说恰好游船也是从今天—3月巧日开始 通航,抚摸着因早晨洗澡而光光的脸,乘出租车奔向码头。滨坂港是一个好像哪里 都见得到的山阴的海港。一字排开一长串好像电器店门前似的挂着很多灯泡的渔船,那是 钓墨鱼的船吧? 早上阳光的照射下,透过哗啦啦涌向脚边的水看到长势很好的藻类在摇动。不管看 哪里的海,最近大体都是先要透过水来看的,是干净的还是混浊的。我想过去的人们可能 想不到这样的事吧。那时海水不论在哪里清澈透明都是理所当然的。

综合日语第五册课后练习题汉字2

第1課 1.お客さんをむかえる 2.母からのたより 3.息子をたよりにする 4.外国人がおおぜいいる 5.友だちからたのまれる 6.知合をたずねる 7.先生にたずねる 8.海をこえて上海に来る 9.百人をこえる代表団を送る 10.二千年の昔にさかのぼる 11.まねかれて学術講演を行なう 12.代表団のいっこう 13.あそびたいのがまんして勉強す る 14.荷物をはこぶ 15.この娘には母親のおもかげがあ る 第2課 1.かたつむりは軟体動物である 2.答案をしらべる 3.高い目標をめざして努力する 4.音楽をたのしむ 5.一家のくらしをささえる 6.へんとうせんえんにかかった 7.のどを通らない 8.暴風雨がうほえ狂う 9.だんろの火も消えてしまった 10.強い風が吹きあれる 11.ひょうてんか二十度の寒さに 12.子供をせおう 13.こおりの室にいるようだ 14.おもてから人声が聞こえてくる 15.連なる山がいちぼうのもとに見 おろせる 第3課 1.みつばちだけをつかまえてくる 2.あざやかな色が不思議なくらい である 3.そのしょうこに、この虫はふんを する

4.ベンジンでひたしてびんのなか に入れる 5.運動中枢をまひさせる 6.かたいよろいを着た虫である 7.つぎ目がぴったり合わさる 8.獲物をかかえて帰ってくる 9.やくわりはあべこべとなる 10.私の実験はしっぱいに終わった 11.体のむきを変えた 12.死にぎわの虫がやくやるように もがく 13.幼虫は、がんじょうなゾウムシに ふみつぶされる 14.もう一つの、もっとやっかいな問 題が残っている 15.彼は親にしかられてもへいきな 顔をしている 第4課 1.雨が降った後の空気はしめっぽ い 2.国家の運命をさゆうする大事件 が起きた 3.文章のかき出しは大切である 4.たつまきとは居所的な猛烈な旋 風のことだ 5.降雨により、河川などの水が大い に増えて、あふれた水をでみずと いう 6.去年はひでりに見舞われた 7.次々にめあたらしい話題を持ち 出す 8.せっかくのこういを無にする 9.私の英語はとてもへたです 10.四季のうつり変わりがはっきり している 11.自分を相手にどういんしょうづ けるか 12.みんながしょうちしても、私はし ょうちしませんよ 第5課 1.お互いに経験をかたり合う 2.雑事におい立てられて、このごろ

综合日语5册第11课翻译

从岛上所见说起 在北海道的天卖岛,我曾经有过乘着带有小型发动机的小船在小岛四周的大海上巡游。我在小岛上的马道上散步了一圈回到民营的时候,正好碰到民营的主人带着四岁和一 岁半的孙子搬出小船,他邀我也一同去乘船,虽说是爷爷,但也只是50岁左右那样年轻,他每天都会被孙子们缠着乘小船出海,在妻子和媳妇准备晚餐的繁忙时间,他承担了照顾 孩子的任务。在大海风平浪静的时候就到海上照顾孩子。 小船沿着海岸行驶,因为是小船,只有在观光船不能靠近的沿岛的浅滩中随波行走着。数百只黑尾鸥飞起,在岩礁之间排成一列的海鱼鹰贴近海面飞翔,孩子们将手伸入乘 着小船出海的海水中,并吱吱嘎嘎的喧闹着。因为孩子们身体靠着同一边的船舷上,小船 一下子倾斜着,我内心捏了把汗,如果掉入海中就麻烦了,而且我自己也很害怕,要是小 船翻了的话,就会被翻卷的波浪甩到岩石上,想到这儿我抓住两个孩子的背,但是孩子们 却一点也没有静下来,我真是累坏了。 但是,孩子们真的很有活力,就连天快变黑要回去的时候,还央求再多乘会儿船, 他们是大海的孩子啊,这些孩子就是这样全身心的去体会大海的吧,由祖父带着去散步, 总有一天他们一定会将天卖鸟四周的大海的每个角落都了解的一清二楚。在环岛的过程中,那个四岁的孩子说那边的水很好喝,我们将小船停在海蚀岩下面,去喝洞穴里涌出来的水,小孩将附近的草叶摘下来巧妙的卷起来,去滔起据说是很久以前土著人住过的洞底而涌出 的水,然后立马喝掉。我也学着他的样子喝了一口,果然是很好喝的水,这样的水所在之处,这种喝法,都是这个四岁的小孩子从祖父那里学到的。 这些孩子将大海,尤其是天卖岛的大海肉体化了。在大海这样的自然中,和父亲一样,和祖父一样,和曾祖父一样的东西铭刻在身体里。将大海肉体化这一点,我连这个四 岁甚至是这个一岁半的小孩都不如。我出生成长在雪国,对于雪这个自然的话是十分肉体 化的了,但是对于大海就具有洗海水浴、在海边散步这样的体验而已。大海在我身边之外,虽然我喜欢大海,但是我还没有将它变为身体内部的东西。某个地方的自然没有变化地持 续下去时,不在自然,在自己自然而然地节奏中无变化的持续下去的地方里。生长在那里 的人们的眼里不论是今年、去年、十年前还是100年前也没有变化的持续下去的时候,在那片土地上生存,死亡的人们会从父母到孩子、孩子到孙子那样将同样的东西传承下去吧。和去年春天一样,今年的春天也会到来,和去年的春天一样开着花。即使今年的春天比去 年的春天开花的时间稍微又迟了一点,但相对的花的颜色开地漂亮一些。在这些微小的差 别中,自然承接着以前的自然,在这之中,人们会有超越时代共同的感觉,会分享着共同 的喜悦。 但是,如果突然小岛的大海没有了,或是即使大海还在但被污染得连鱼都不能生存 的程度的话,至今为止的这一代人和接下来的一代人之间的共同感觉就会消失。我在天卖 岛上看到的祖父和孙子一起去海上游玩这样的事就会变成不可能,祖父心中的大海就无法 传递给孙子,在内心深处拥抱大海的祖父,面对不是那样拥抱大海的孙子,或者面对可能

综合日语第一册 第一次月考试卷(5课~7课)

说明 所有题目必须手写!不能翻书或者任何资料!这是测验!请自觉!测验时间:3个小时。总计:150分。 第一次月考测验卷 PartA 单词及基础知识(总计70分) 一,根据汉字写出平假名(8分,0.5分1个) 1、相互2、本当3、大丈夫4、宿題 5、教室6、便利7、汚い8、引越し 9、読解10、専門11、自己紹介12、卒業 13、日記14、課程15、芸術16、博士 二,根据假名写日本汉字(8分,0.5分1个) 1、げんご2、そうごう3、がくぶ4、いしゃ 5、りょうしん6、なまえ7、こんやく8、こいびと 9、あね10、あに11、きょうし12、がっか 13、こうはい14、こうこう15、いま16、せんぱい 三,写出片假名单词(8分,1分1个) 1,女朋友2,美国3,男性公司职员4,日程表 5,柜台,接待处6,电脑7,厕所8,楼,建筑 四,写出对应词的反义词(否定变形不算)。(5分,0.5分1个) 易しい新しい綺麗面白い便利 まずい少ない暑いうるさい安い 五,写出对应的平假名。(28分,5分1小题,最后1小题3分) ①1人2人3人几人1楼2楼3楼6楼100楼几楼 ②1岁6岁7岁9岁18岁20岁68岁多少岁(两个)星期五 ③1个~10个 ④1号2号3号4号5号6号8号10号8888(数字) ⑤19号20号24号几号几分星期几4月4年6394(数字) ⑥9月12月17点30分24个小时半 六,选择最恰当的选项。(13分,1分1空) 1売店は()白い建物です。

1あれ2どれ3あの4あちら 2家族は5人です。父()母()わたしです。 1とと2のの3はは4やや 3きのうは()。 1あついないでした2あついなかったです 3あつくなくでした 4あつくなかったです 4王:北京飯店は()ホテルですか。 張:ひろい飯店です。 1 どんな 2 どなん 3 どの4どちら 5王さんは日本語が上手です。()はつほんがいいです。 1とくに2だから3いろいろ4ぜひ 6()辞書が王さんのですか。 1どれ2どの3だれ4どう 7この()へやは誰のですか。 1きれい 2きれいな 3きれいで 4きれくて 8 高橋さんの誕生日は()です。 1なながつようか2なながつようが3しちがつようか4しちがつようが 9大学の()はとてもせまいです。 1アクセント2キャンパス3スケジュール4アンケート 10王:あの子は()ですか。 張:高橋さんの恋人です。 1どんな2どれ3どなた4どこ (请填写下面助词) 11王:日本語()何()難しいですか。 張:助詞()難しいです。 PartB 阅读(总计20分) 七,阅读(20分,2分1空) A篇:选择对错,对的打O,错的打X。 きのうの映画はよかった。ストーリーはつまらなかったが、はいゆうがとてもハンサムだった。日本の映画だが、はいゆうは中国人だった。残念ながらそのはいゆうは、今、あまり有名ではない。でも、日本語も中国語もとてもじょうずで、あたまがよかった。 1()映画のストーリーはおもしろくなかった。 2()俳優は日本人ではなかった。 3()俳優は日本語が下手だった。 4()俳優はハンサムだが、頭がよくなかった。

日语综合教程第五册 红山桜

紅山桜 ――辰野和男 昔、弾誓上人という遊行聖が桜の木を切って自分の姿を刻みはじめたところ、たちまちその木から熱血が流れでたという。上人は直ちに刻むのをやめて、袈裟で覆い、箱に入れた、という伝説がある。 桜のなかでもとりわけ、紅山桜をみていると、熱血が流れでというこの伝説がなまなましく、身近な物に思えてくる。 北の桜を尋ねる今回の旅は、新潟に住む写真家、高波重春さんと一緒にだった。 私は行く先々の旅館でぬくぬくと畳の上に寝たが、高波さんは川辺や公園内で寝る習慣を変えなかった。毎年、春になると、桜前線を追って全国を走り回る。 ほぼ二十年、そうやって桜を取り続けている人だ。 高波さんとの旅はたのしかった。撮影の合間に「いっくら撮ってもろくなもんできねえけど」「こんげな景色見てんと、写真というちんけえ四角の枠にあさめんのがばからしくなっちゃう。ただもう、ひざまずくしかないなあ」と自嘲のお国ことはが飛び出す時間は、結構調子に乗っている様子だった。ひざまずくどころか、そんな時の高波さんは三脚をかついで右に左にかけ回った。 東北や北海道の桜をて、そのしぶとさに驚かされることが多かった。福島県社三春町にある紅枝垂の巨木、滝桜はわずかに盛りをすぎていたが、私は花の滝に打たれながら、その幹や枝の怪物しめたたくましさに見とれた。私よりも先に着いて撮影を続けていた高波さんは「三日前が最高でした。最高のとき見てもらいたかったなあ」と残念がった。「最高の状態の桜の花が撮れるのは一年の内の一日、一日の内の一時ですね」とも言った。私としては、花はいつ見ても花だと思いたい。つぼみの桜もいいし、泥にまみれた花びらもいい。だが写真を撮るとなると、「一年、いっとき説」も成り立つのだろう。

日语综合教程第五册 前册单词

父方=ちちかた父方血统 終戦=しゅうせん战争结束 池端=いけのはた池塘边 面=おもて表面 照れる=てれる难为情害羞 ついでに=序に顺便,就便,顺手 辺鄙=へんぴ偏僻 漁村=ぎょそん渔村 夜行=やこう夜间火车夜行 望郷=ぼうきょう思乡望乡 駆る=かる驱赶驱使受...支配 切り離す=きりはなす割开,断开,分开 憧れ=あこがれ向往 掻き立てる=かきたてる搅拌挑亮挑动対応=たいおう应付、协调、相对 勘違い=かんちがい误会弄错 思いのたけ=思いの丈痴情 衰える=おとろえる衰弱 船旅=ふなたび坐船旅行 不満顔=ふまんがお不满的表情 満喫=まんきつ吃足、饱尝 丸窓=まるまど圆窗 すれすれ = 几乎接触 うねる = 弯曲翻滚

覆い=おおい蒙盖物 塞ぐ=ふさぐ挡道,堵,不痛快、郁闷鉄パイプ= 铁管子てつpipe 二段棚=にだんだな两层的架子 カンバス = 麻布 牢獄=ろうごく监狱 居心地=いごこち心情 接触=せっしょく接触 遮断=しゃだん切断遮断 灼熱=しゃくねつ加热,灼热、炎热優雅=ゆうが优雅 冷房=れいぼう冷气设备、冷气 荒々しい=あらあらしい粗暴 野獣=やじゅう野兽 限りない=かぎりない无限、无止境強烈=きょうれつ强烈 素肌=すはだ素颜、露出的皮肤 火傷=やけど烧伤 目くるめく=めくるめく目眩 壮大=そうだい宏大、雄大 ウェトナム= 越南 Vietnam 舳先=へさき船头 冒険者=ぼうけんしゃ冒险者

冷酷=れいこく冷酷无情 水母=くらげ水母 浮かぶ=うかぶ漂、浮;浮起、浮出;想起、浮现白緑色=はくりょくしょく淡绿色 ねっとり = 胶粘、粘粘糊糊 壮麗=そうれい壮丽 落日=らくじつ落日 黄金色=こがねいろ金黄色 帯びる=おびる佩带;担任、负担;带有、含有 青黒い=あおぐろい青黑色 刻々=こっこく每时每刻 魂=たましい精神、精力、灵魂 奪う=うばう剥夺、迷人 舷側=げんそく船舷 見入る=みいる注视、看的出神 退屈=たいくつ无聊 ひたすら= 一味、只顾 恋しい=こいしい怀恋 がっしり= 坚实、坚固、健壮 乱れる=みだれる散乱、混乱

综合日语第5册第4课翻译

庭院 所谓的庭院就是位于房屋外部,毫不影响室内气氛的住所装置。例如,在起居室坐着,不经意朝外面看的时候,通过那里的无论是清新宽广的草地,还是枝繁叶茂的松树其住所的氛围都会十分不同。因为我住的是建有庭院的父母的房子,虽然称不上是自己的庭院,但可以从床边的餐桌那里观望父母的庭院。这个院子不是按照“庭院”风格整修出来的,杂木丛生。但这反而敏锐的反应出四季时时的变换而令人喜欢。初春墙角出其不意的点缀着纤细的梅树,光秃秃的树枝把冬日的落日撕得四分五裂。望着这些经常会让我焦躁的心情变得平和起来。 观赏庭院这个毫不起眼的行为,似乎是包括我在内的日本人日常生活流程中意想不到的重要环节。例如山口瞳的极其悲伤地私小说集《庭院的沙场》之中的一篇同名短片小说就是其中一个典型的例子。这个小说是这样写的: “今年的梅雨格外的长。可能是三月和四月的雨天特别多的原因吧!我带着这种阴郁,的心情度过这每一天。我并不讨厌梅雨时期,可能是因为繁茂的树木吧。看着雨水落在绿叶繁茂的树木上感觉心情十分好。我喜欢八仙花,紫朱那种淡淡的粉色开花时也很好看。 我坐在能近看树木的卧室的长椅子上看着下着雨的庭院。心情开始沉重起来。“ 作为作者分身的主人公在望着这样的庭院时就会开始缅怀最近一个个去世的亲人。也就是说心情变得越来越沉重了。或许这和先前说道的“心情平和”是相反的吧。因为实际上平时强忍的情感在凝视庭院的时候就会被诱发出来,通过引起一种放电使得压抑消除,在本质上是和“平和”一样的现象。在缅怀死者后到浴室洗头的主人公在葬礼上绝不哭泣去在这个时候流下了眼泪,通过结局我们可以清楚的发现都这一点。 想来,庭院的一大用途就在于有这样的治愈效果吧。因此,最低的要求就是连接着住所,哪怕是不那么美或是没有赏心悦目的景色,足以接纳我的视线,存在着自然的断片。看着庭院能心情平和是因为这些事自然的东西,即使只是断片,但它与人们日常生活中的偶然发生的喜怒哀乐是想独立的,保持着自己的节奏而变化着。我们可以感受这种节奏使自己的情感相对的变化着。也就是说接纳我们的视线就是接受我们的感情,这两者大致是相等的。 当然,这种效果在远观庭院外的风景和公共绿地也是能感受到的。但是,其微妙之处就是私人领域的庭院与外面的风景其效果总觉得有些不同。这大概是因为寄托感情的一方的意识会自然而然地感觉不同吧。通过释放给外部对象的方法最终去治愈感情的波折,即便不是那么的严重,但是对于其本人来说是不想让别人知道而隐藏在自己心里的高度隐私。因此,为了允许自己释放这样的感情,人们有必要尽量是自己处于不被别人干涉,使心理上感到安全受到保护的环境中。因为这样的话,不管是自己所

日语综合教程第五册课后翻译练习

第一课 1.如果无故旷工长达1个月的话,从目前这个公司的现状来看,想要复职恐怕比较困难。(~とすると;无故旷工―無断欠勤) 一ヶ月ぐらい無断欠勤とすると、現在の会社の状況からみて、おそらく復職したいことが難しいだろう。 2.虽说中了彩票,但只不过中了1个六等奖3000日元而已,没有必要高兴得跳起来。(~といっても) 宝くじに当たると言っても、三千円の六等賞が当たっているだけ、飛び上がりに喜んだことはない。 3.在日逗留期间,我无论如何也要去看看被称为日本之最的美丽的富士山。(何としても) 在日間、何としても、「日本の最」と言われて美しい富士山を見に行きます。 4.轮船犹如一叶扁舟在海浪中疯狂地飘舞着,仿佛马上就要翻船。让人担心不已。(~さながら;疯狂地飘舞着-舞いくるう) 汽船は小船さながら波の中で舞い狂っていて、すぐに転覆そうで、心配してたまらない。 5.我光是抚养妻子儿女就已经很吃力了,根本没有经济能力去买那种奢侈品。(~だけでも;很吃力―精いっぱい) 妻子を扶養してもう精いっぱいだけでも、そんな奢侈なものを買って経済能力がない。 6.我从小由外婆一手带大,与父母不太亲近。可是通过这件事情,我深深感受到做父母亲的不容易。(ありがたみ;与父母不太亲近ー両親としっくり行ってなかった) 子供からお祖母さんに手に掛けてくれたので、両親としっくり行ってなかった、このこと通して、両親の不易がありがたい。 7.尽管我们父子俩相处了30年,可是我从未与父亲尽情地交谈过。(心ゆくまで;从未ー一度たりとも~ない) 私たち親子が一緒に暮らして30年けれども、父と一度たりとも心行くまで話し合ったことがない。

综合日语第四册第11课教案

综合日语第四册第11 课教案 -CAL-FENGHAI-(2020YEAR-YICAI)_JINGBIAN

湖南农业大学2015届毕业生 教学实习教案 班级:日语一班 学号: 201141326115 姓名:阳秀君 指导老师:何蓓

课程名称:综合日语第四册 教学内容:第11课コミュニケーション 教学课时二课时 教学目的:使同学们能清楚地了解课文中对话内容,熟练地就课文内容进行对话。 教学要求:要求学生掌握新单词的读音,意义及用法,六个重点句型以及日语语体简体的区别。 具体内容: 第一课时 1,简单朗读单词(重点注意学生的发音与语调) 重点讲解明ける滑る 2,讲解课本5页词汇 ①―まみれ(补充类似) ②ハデ(派手)简单解释年轻人特有的标记用法 ③顔文字补充表情符号 3,讲解书本5-6页句型。 ①Vる |たそばから<先后>补充:类似 ②Nときたら<话题> 4,语气助词ね和よ的语调对比 5,じゃない的用法及其语调 第二课时

1,让学生自主阅读18页的读解,然后完成练习A 2,详解课文中出现的新动词单词 済む絶える埋まる求める固まる取り組む 躊躇う 3,讲解20到22的语法 ①~反面<相反的两面> ②めぐって/めぐる<中心点> ③としたら<假定条件> ④かとおもたっら<出乎意料> ⑤がたい<难以实现> ⑥~ない限り<唯一条件> 教学难点:类似语法的辨析 参考书:《新日本语考试文法》 《日语句型字典》 《综合日语》 作业与参考题: 教学后记:授课声音洪亮,课堂气氛较活跃,师生互动多,但由于教学内容比较多,上课速度过快,对语法、词汇、。并且,因为是第一次上台授课,有点紧张。课堂上还有生造例句的错误,板书排版欠妥。需有条理的进行讲课,并且掌握一定的讲课节奏能够很

日语综合教程(五)

日语综合教程第五册目录 第1课海の中に母がいる 第2课田中正造 第3课日常の思想 第4课庭 第5课木の葉の鱼 第6课をせ車輪動物カミしヘをしヘのか 第7课紅山桉 第8课蘭 第9课『的』の文化 第10课屋根の上のサヮン 第11课こ島見けンとかぅ 第12课歲時記 第一课海の中に母がいる 山好きの血が父方から流れているとすると、海好きは間違いなく母から伝わっている。終戦間もなく、しのば ずのいけ不忍池のほとりを通りかかると、池の端に、母がしゃがみ込んで池の面をじっと見ている。声をかけ ると、母は照れたような顔で立ち上がり「ちょっと海が見たくなって」と言って笑った。 当時、東大のそばに住んでいたので、買い物のついでに不忍池で休んでいたのだろうが、そのときの母の言葉 が妙に忘れられない。小学六年の夏、母の故郷のかごしま鹿児島の辺鄙な漁村でひと月暮らしたことがある。 母の父は背の高い、こわい人で、そこでずっと医者をしていた。家から五十メートルほどで海に出る。桜島や 開聞岳の見える美しいはまべだった、母が海を見たいと言ったのはその故郷の浜辺のことを考えていたのかも しれない。今なら二時間もかからない鹿児島は、その頃は夜行や連絡船で二日かかる遠い国だった。望郷の思 いに駆けられても当然だったような気がする。 海好きといっても、心ゆくまで海と親しんだのはその夏だけで、あとは学校から海水浴にゆく程度だった。お そらく海と切りはなされた状態がかえって海への憧れを掻き立てたのだろう。大学を出る年、何としても海に 関係する職業につきたいと思い、日本郵船に入社できないか聞きに行った。対応に出た人事課長は「うちも、 ほかの会社と同じですよ。文学部出身では、どうもね」と気の毒がってくれた。船会社だから、全員が船に乗 れるものと勘違いしていたわけだ。 それでも、船に乗って、海を思いのたけ味わいたいと言う気持ちは、いっこうに衰えなかった。幸いフランス にゆくことになり、留学生は船に乗るように、という指示があった。マルセイユまで三十三日の船旅――考え ただけでも嬉しさで気が遠くなりそうだった。しかし仲間の留学生たちは、何でそんな無駄な旅をさせるのか、と不満顔だった。 私はひとり海の喜びを満喫するため、四等船室を選んだ。ここは季節労働者用の船室で、留学生が近寄らない ばかりでなく、船底なので、海に近く、丸窓の外は青い波がすれすれにうねってる。海が荒れると、船員が鉄 の覆いで丸窓をふさぎにくる。ベッドは鉄パイプの二段棚にカンバスを張っただけ。飾りなど何もなく、牢獄 さながらだ。 しかし文明の居心地よさはつねに、大自然との直接の接触遮断しゃだんする。たとえば灼熱の紅海では、船底 は四十度を越え、甲板でも燃える暑さだ。もちろん一、二等船室は優雅に冷房されているが、それでは、コン ラッドの描くこの熱帯の海という荒々しい野獣のようなものの実体に触れることはできない。限りなく強烈な、素肌ならすぐに火傷を起こす太陽の下でしか、紅海の目くるめく壮大さは味わえないのである。 私は朝、甲板で激しい海の風に吹かれながら飲む大カップのコーヒーに満足した。中国人、マレー人、インド ネシ?人、ウェトナム人たちの喧噪のなかで、甲板に寝そべってヘミングウェイをよむのが、たまらなく嬉し かった。舳先に立って風を受けていると、まるで大航海時代の冒険者になったような気がした。 東シナ海の冷酷な青い波、くらげの浮かぶボルネオ海の白緑色のねっとりした波、インド洋の壮麗な落日の下 で黄金色に砕けていた波、地中海の凄味を帯びた青黒い波――いずれも刻々に私のたましい魂を奪ってやまな

综合日语第二册练习册(修订版)答案

《综合日语修订版练习册》第二册练习答案130807 第16课 I. 文字、词汇、语法 1.(1)じんじゃ(2)つつ(3)ぶたにく (4)つか(5)ていねい(6)こま (7)けんこう(8)つた(9)きも (10)りょうり 2.(1)新幹線(2)心配(3)確認(4)発展(5)働 (6)職場(7)土産(8)掃除(9)年末(10)迎 3.(1)c(2)a.(3)b(4)d(5)b.(6)a.(7)c(8)b 4.(1)で(と)(2)だけに(3)に(4)の、のを(5)に(6)から(7)ほど(8)で(9)を(10)で、で(11)に、が 5.(1)呼び(2)読んだり、聴いたり(3)して(4)要らない(5)曲がっている/曲がった(6)出たら (7)留学している(8)見たら/見ると(9)上手に (10)短く 6. 正答例 (1)1時間ぐらい運動して外で食事をします。 (2)先生に会った。 (3)新聞を読んだりします。 (4)専攻以外の科目も勉強しました。 (5)車の免許も取りました。 (6)大きくなります。 (7)難しくて分かりにくいです。 (8)教え方が違います。 (9)会社へ行って仕事をしなければなりません。 (10)説明書を調べます。/専門店へ持って行きます。 7.(1) b.(2) d.(3) b.(4) c.(5) a. (6) d. (7) d.(8) d.(9) a 8.(1)a.(2)c.(3)b.(4)d.(5)c

9.(1)故郷へ帰ること。 (2)家族が集まって楽しく過ごすこと。 (3)お正月に食べる特別な料理。 (4)年の暮れにその年の仕事を終えること。また、その日。 (5)正月の元日、2日、3日の三日間のこと。 10.(1)b.(2)d.(3)c.(4)c.(5)a (6)a.(7)d.(8)c.(9)d.(10)c 11.正答例 (1)夜7時に一階の会議室で新入生の歓迎パーティーがあります。一緒に行きませんか。 (2)A:夜、何をしますか。テレビを見ますか。 B:いいえ、あまり見ません。よく本を読んだり音楽を聞いたりします。 (3)それではこのコンピュータの使い方を簡単に説明します。 (4)白菜やにらを細かく刻んでください。 (5)父は家へ帰ってお風呂に入ってから夕食を食べます。 (6)はがきにお名前とお電話、ご住所を書いてこちらに送ってください。 (7)大学の食堂でも安くおいしい料理が食べられます。 (8)美術館へ友達の写真展を見に行ったら、もう終わっていた。 (9)シンポジウム期間中は毎日夜遅くまで議論していましたので、観光したり買い物をしたりするような時間はなかった。 (10)親にとって、自分の子どもはいつまでも子どもです。 Ⅱ. 听力 1.(1)b (2)c (3)a (4)c 2.(1)b (2)a (3)d 3. 4.(1)③(2)②(3)①(4)②

综合日语5

第5課東京回顧写真展小池真理子 解説;小説の読解には、「小説の構成」「小説の構成要素」を念頭において読む必要がある。 〈小説の構成〉発端〈小説の構成要素〉社会背景(時代?場所) 展開登場人物(主人公等) 山場事件(出来事) 結末 近代小説の特徴は、主人公の心理描写を通して作者の心情?考えを吐露するというところにあるので、〈構成〉においては、「山場」と「結末」の段落に、小説 のテーマにかかわる事柄?内容が述べられていることが多い。また、〈構成要素〉 においては、主人公が事件(出来事)に遭遇して、どう思い、何を考えたかとい う心情を把握することが重要である。 さて、教科書の本文で注意しなければならないのは、「結末」の段落の秋葉正巳からの手紙は、1978年に書かれたものであるという点である。主人公の「私」は、 その人(秋葉)に会いたいと思って、梅雨が明けて間もない猛暑の日に、郊外に 向かって電車に乗っている。その今現在からは、十数年ほど前に書かれた秋葉か らの手紙を「私」は回想しているのである。 段落構成と要旨; 第一段落(P117,L1~21)〈発端〉いま、ある人に会いに行く私私はいま、都心とは反対方向に向かう電車に乗っている。これから会いに行こうとしている人物が、何故、これほど私をとらえてやまないのか、わからない。 わたしはただ、その人に会いたいと思っているだけだった。 第二段落(P117,L22~P121,L31)〈展開〉一ヶ月ほど前の出来事 展開①(P117,L22~P118,L32)デパートでの買い物 一ヶ月ほど前に、夫が世話になった医師に贈る品物を買うために、デパートに行き、その後駅前にある大型書店へ向かった。 展開②(P118,L33~P120,L22)書店での出来事 書店めぐりは、私のささやかな、欠かすことのできない楽しみのひとつであった。その駅前の書店で、私は、何故かわからないまま写真展の割引入場券を 手にするが、そのことが、あの記憶を生々しく甦らせる原因になった。 展開③(P120,L23~P121,L31)東京回顧写真展での体験 写真展は、ビルの最上階にあるギャラリーで開かれていたが、さしたる説明がなかったせいか、時代を物語る風景が、私のような年代の者にとってはあり

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